ヤツミ様
人は誰しも、生まれた瞬間に「それ」を知っている。
母の産声よりも先に、闇の中で名を呼ばれる。
ヤツミ様。
それは教えられるものではない。
誰に聞いたわけでもないのに、確かに知っている。
温度、匂い、視線の重さ。
産声を上げる直前、赤子の意識の底に、ぬるりと刻み込まれる存在。
けれど不思議なことに、人は成長するにつれて、それを忘れる。
言葉を覚え、名前を覚え、世界を理解するほどに、
ヤツミ様は思い出せなくなる。
忘れた、のではない。
思い出せないようにされている。
三十六歳のある夜、私は理由もなく目を覚ました。
喉の奥がひどく渇いていた。
水を飲もうと起き上がった瞬間、背後で「ぴちゃり」と湿った音がした。
振り返ると、部屋の隅に“影”があった。
影なのに、暗くない。
むしろ、そこだけが異様に生々しい。
その瞬間だった。
頭の奥で、封をされた記憶が、音を立てて剥がれ落ちた。
…ああ。
思い出してしまった。
ヤツミ様。
子宮の中で、あれは私を覗き込んでいた。
目は八つ。
どれも閉じているのに、確かにこちらを見ていると分かった。
「また会えるね」
声ではない確信が、私の存在そのものを撫でていた。
思い出した瞬間、体が理解した。
これは恐怖ではない。
順番が来ただけだ。
影が、ゆっくりと近づく。
床を這る音は、胎内で聞いた心音に似ていた。
逃げようとしたが、脚が動かない。
赤子がそうであるように、私はただ受け取る側だった。
ヤツミ様は、顔を持たない。
それでも、にちゃりと笑った気配だけが、はっきり分かった。
そして、理解する。
人がなぜヤツミ様を忘れるのか。
それは、覚えていたら生きられないからだ。
あれは生まれた命すべてに所有権を主張する存在。
人生は猶予でしかない。
最期にだけ、
「返却期限ですよ」と、思い出させに来る。
私の視界が暗く染まる直前、
ヤツミ様は、かつてと同じ確信を流し込んできた。
「ほら、最初から知ってたでしょう?」
翌朝。
私は自宅のベッドで、心不全として発見された。
医者は言う。
「苦しんだ形跡はありません」
それは、正しい。
だって私は、
恐怖より先に、思い出してしまったのだから。
そして今日も、
どこかで新しい命が生まれる。
産声より少し早く、闇の中でヤツミ様は、名を教える。




