第9話 返された箱
伯爵家の馬車が通らない路地へ入ると、道は急に荒れた。
曇天の下、クラリッサの実家は古い煉瓦塀の内側で、長く閉め切られていた部屋のように静まっていた。
依頼人の実家へ着くまで、エルネスタとレオンはほとんど口を利かなかった。
正確には、エルネスタが話さなかった。
レオンは2度ほど何か言いかけたが、馬車の窓へ目を向けたまま黙った。
先ほどの質問が失礼だったと気づいたのかもしれない。
あるいは、次の質問を考えているだけかもしれない。
後者の可能性が高かった。
「到着しました」
御者の声がして、馬車が止まった。
依頼人の実家は、王都の北端にある古い屋敷だった。
門柱には蔦が絡まり、庭の噴水は水を止めている。
荒れているわけではないが、手入れにかけられる人手が少ないことは、玄関へ着く前から分かった。
扉の前で待っていた婦人が、2人を迎えた。
「お待ちしておりました」
昨日よりも質素な服を着ていた。
髪も自分で結ったのだろう。
襟足に短い毛が残っている。
「改めて、お名前を確認させてください」
エルネスタが手帳を開くと、婦人はわずかに笑った。
「クラリッサ・ヴァルナーです。昨日は名乗ることも忘れていましたね」
「私もお尋ねするのが遅くなりました。申し訳ありません」
「夫から離縁を告げられてから、自分の名前を聞かれることが減ったものですから」
クラリッサは、少し考えてから付け加えた。
「夫人と呼ぶべきか、令嬢へ戻るのかも、まだ分からなくて」
「婚姻が無効になるかどうかは、まだ決まっていません」
エルネスタが言った。
「夫側の弁護士が主張しているだけです」
「そうなのですか?」
「はい。夫婦関係がなかったことだけで、6年間の婚姻が当然に無効になるわけではありません」
クラリッサの顔に、わずかな安堵が浮かんだ。
レオンはエルネスタを見た。
「先にお伝えしてもよかったのでは?」
「昨日は、書類を十分確認できていませんでしたので」
「今は見たのですか?」
「馬車の中で」
「いつの間に」
「あなたが静かにされていたので、よく読めました」
エルネスタがにっこり微笑みかけると、レオンはそれ以上の追求をやめた。
「荷物は、こちらです」
案内されたのは、2階の奥にある部屋だった。
かつては子ども部屋だったらしい。
壁紙には色あせた小鳥が描かれ、窓辺には小さな木馬が置かれている。
その部屋を埋めるように、大小17個の箱が積まれていた。
「これで、すべてですか?」
「夫の家から届いたものは」
クラリッサは、最も大きな木箱へ手を置いた。
「結婚するとき、この家から運び出したのは、馬車4台分でした」
戻ってきたのは17箱。
数だけで判断はできないが、少ない。
エルネスタは持参品目録を開いた。
「まず、番号をつけましょう」
「箱にですか?」
「はい。開けた順番と、中に入っていた物を記録します。あとで入れ替わったと言われないために」
「そこまで必要でしょうか」
クラリッサが尋ねる。
レオンが答えた。
「必要です」
簡潔だった。
エルネスタも同意見だったので、何も付け加えなかった。
3人で箱へ番号札をつけていく。
1番の箱には、銀食器。
2番には、寝具。
3番には、クラリッサが嫁入り前に使っていたドレス。
銀食器は目録の数と一致した。
ただし、12本あるはずの食事用ナイフのうち、2本だけ柄の模様が違っていた。
「こちらは、元の品ではありませんね」
エルネスタが言うと、クラリッサはナイフを手に取った。
「本当です。私のものには、柄の先に花が彫られていました」
「交換された時期は分かりますか?」
「分かりません。毎日の食卓で使っていたので」
レオンが2本を布の上へ分けた。
「不足として記録します。代用品が返されても、同一品の返還にはならない」
「ですが、ナイフ2本くらいで」
クラリッサが言いかける。
「2本くらい、ではありません」
エルネスタは思ったより強い声を出した。
クラリッサが目を瞬く。
「あ……すみません」
「いいえ」
「ただ、小さいものから曖昧にすると、大きなものも曖昧になります。2本は2本です」
レオンがこちらを見た。
何か言うかと思ったが、黙って記録用紙へ書き込んだ。
2番の箱に入っていた寝具は、使い古されていた。
嫁入りの際には新品だったはずだが、6年間使ったのだから当然とも言える。
問題は、それがクラリッサ個人の持参品なのか、夫婦の共同生活のために消費された物なのかだった。
「これは、返却されたと考えるべきでしょうか」
エルネスタが尋ねる。
「物は返ってきている」
レオンは答えた。
「ただし、価値は減っている」
「使用したのは夫だけではありません」
「だから、全額を請求するのは難しい」
「半額ですか?」
「一律には決められない。使用期間と、誰が利益を得たかによる」
「寝具1枚ごとに?」
「必要なら」
エルネスタは、積み上がった布を見た。
先は長そうだった。
「法務官殿」
「何です?」
「今日中に終わりますか?」
「終わらなければ、明日も来る」
「簡単におっしゃいますね」
「出張料金が増えるのでは?」
「依頼人の負担も増えます」
「なら、手を動かしてください」
言われなくても動かしている。
反論する代わりに、エルネスタは3番の箱を開けた。
中には、古いドレスが詰められていた。
どれもクラリッサが結婚前に着ていたものらしい。
6年前の流行で、袖が大きく膨らんでいる。




