第8話 昨日の仕事
午後になると、裏通りを荷車が行き交い始めた。
店の外では誰もが働いているのに、窓の内側では「仕事だったのかどうか」を決める話が続いていた。
「夕食会が終わったのは?」
「11時を過ぎていました」
「その後は?」
「夫が頭痛を訴えましたので、寝室へ薬を届けました」
「ご主人の寝室へ?」
「はい」
「奥様とは、別室ですか?」
婦人の表情が固くなった。
「結婚した日から」
エルネスタはペンを置いた。
「先ほど、白い結婚だとおっしゃいましたね」
「はい」
結婚して6年。
夫婦としての関係は、1度もない。
それでも婦人は、夫の家で暮らし、夫の母を看病し、夫の領地から届く手紙を読み、夫の客をもてなしてきた。
「離縁の理由を、詳しく伺ってもよろしいでしょうか」
「夫に、愛する方ができました」
ありふれた理由だった。
少なくとも、《未練商会》では。
「その方と結婚したいので、私との婚姻を無効にすると」
「離縁ではなく、無効ですか?」
「夫婦の関係がなかったのだから、初めから結婚していなかったことにできる、と弁護士が」
エルネスタの指先が、手帳の端へ触れた。
婚姻が無効になれば、婦人は妻としての財産分与を受けられない可能性がある。
6年間の生活も、労働も、記録の上で存在しなかったように扱われかねない。
「持参金は?」
「返すと言われています」
「すべて?」
「そのはずです」
「目録はお持ちですか?」
「はい。こちらに」
婦人は足元に置いていた革鞄から、折り畳まれた書類を取り出した。
紙は古く、端が少し擦れている。
嫁入りの際に持ち込んだ家具、宝石、衣服、銀器。
細かな品まで、すべて記されていた。
「返却された品は?」
「馬車で運ばせました。今朝、実家へ届いているはずです」
「目録との照合は?」
「まだです。母が体調を崩しておりまして、私も……その」
婦人は言葉を探した。
「何から始めればよいか、分からなくて」
「大丈夫です」
エルネスタはすぐに言った。
言ってから、少し早かったと思った。
大丈夫かどうかは、まだ分からない。
「……すみません。大丈夫にできるよう、調べます」
婦人はうつむき、小さくうなずいた。
サロメが帳簿を閉じる。
「まず、返却された持参品を確認しましょう」
「実家へ来ていただけるのですか?」
「出張料金がかかります」
「店主」
「必要な説明です」
「もちろん、お支払いします」
婦人は慌てて答えた。
「ただ、あまり手持ちがなくて」
「分割もできます」
「被害者割引は?」
エルネスタは思わずサロメを見た。
先ほどのやり取りを聞いていたらしい。
サロメは1拍黙った。
「……半額です」
婦人が、今度はきちんと笑った。
*
婦人の実家は、王都の北側にある古い子爵邸だった。
翌朝、《未練商会》の前へ、小さな貸し馬車が止まった。
「店主は来ないのですか?」
エルネスタが尋ねると、サロメは店の扉を開けながら首を横に振った。
「私は留守番です」
「1人で伺うのですか?」
「1人ではありません」
サロメはカウンターの上に、1通の書面を置いた。
王国監査院の印がある。
「何ですか、これ」
「同行者です」
「書面が?」
「まさか」
ちょうどそのとき、通りの向こうから1人の男が歩いてきた。
焦げ茶色の髪。
暗い緑の瞳。
きっちりと留めた上着には、王国監査院の徽章がついている。
男は店の前で立ち止まり、エルネスタを見た。
次に看板を見た。
それから、もう1度エルネスタを見た。
「エルネスタ・クロイツ嬢ですね」
「はい」
「王国監査院法務官、レオン・ハルフォードです」
声は低く、愛想はなかった。
「本日より、《未練商会》の鑑定業務を監査します」
エルネスタはサロメを振り返った。
「聞いていません」
「今、伝えました」
「先におっしゃってください」
「先に言えば、昨夜眠れなかったでしょう」
「今からでも帰りたいのですが」
「出張料金は受け取っています」
サロメは、エルネスタの背中を軽く押した。
「行ってらっしゃい」
レオンは馬車の扉を開けた。
「時間がありません。先方は10時に待っている」
「分かっています」
「では、乗ってください」
「法務官殿も?」
「監査ですから」
「持参品を見るだけですが」
「持参品を見ただけで、何を損害と認定するつもりです?」
エルネスタは男を見上げた。
初対面である。
まだ何も見ていない。
それなのに、すでに鑑定を疑っているらしい。
「何も認定していません」
「そうですか」
「そうです」
「それなら結構です」
結構だとは、まったく思っていない顔だった。
エルネスタは馬車へ乗り込んだ。
レオンも向かいへ座る。
2人の間には、婦人から預かった持参品目録が置かれた。
馬車が走り出してから、レオンが口を開いた。
「1つ確認します」
「何でしょう」
「王太子殿下への私怨を、ほかの案件へ持ち込んでいないと証明できますか?」
エルネスタは、目録から顔を上げた。
馬車の車輪が、石畳の継ぎ目を踏んだ。
がたん、と大きく揺れる。
「法務官殿」
「はい」
「それは、今ここで聞かなければならないことですか?」
「最初に確認しておくべきことです」
「そうですか」
エルネスタは目録を閉じた。
「では、こちらからも1つ確認してよろしいでしょうか」
「どうぞ」
「法務官殿は、私が泣いていたら、もう少し言い方を選びましたか?」
レオンは黙った。
どうやら、言葉を選ぶ機能そのものが不足しているらしい。
前途はあまり明るくなかった。




