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婚約破棄鑑定士は、恋を値切らない  作者: くるみ
第1章 白い結婚には、家事代が含まれますか

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第7話 何もしていなかった妻

昼の店には、昨夜とは別の静けさがあった。

窓から差す白い光の中で、相談机の傷や紙の端までが妙にはっきり見えた。


「夫に、何もしていなかったと言われました」


婦人は、そう言ってから膝の上で手を組み直した。

細い指には、指輪の跡だけが白く残っている。

結婚指輪は、もう外してきたらしい。


「それで、離縁しても失うものはない、と」

「はい」

「何も?」

「何も、だそうです」


婦人は笑おうとした。

口元は動いたが、笑顔にはならなかった。

エルネスタは手帳の上でペンを止めた。


《未練商会》で働き始めて、3か月になる。

婚約破棄された者は泣く。

離縁を言い渡された者は怒る。

そう思っていたが、実際には、客は思いがけないところで笑うことがある。


馬鹿にされた話をするとき。

自分の人生が何もなかったことにされたとき。

本当に泣きたいところでは、かえって笑ってしまうらしい。


「昨日1日のことを、朝から順にお聞かせいただけますか」


エルネスタが言うと、婦人は目を瞬いた。


「昨日すべて、ですか?」

「はい。起きたところから」

「ですが、離縁のお話をしたほうが」

「そちらも、あとで伺います」


エルネスタは新しい頁を開いた。


「まずは、何もしていなかったかどうかを確認します」


婦人は困ったようにカウンターの奥を見た。

サロメは聞いていないふりをして、帳簿をめくっている。

助け船は出さないつもりらしい。


「朝は……6時に起きました」

「早いですね」

「義母が朝に薬を飲みますので」


エルネスタは書き留めた。


「薬の準備は、使用人ではなく奥様が?」

「侍女に任せることもあります。ただ、昨日は新しい薬に変わったばかりで、量を間違えないように私が」

「薬を受け取ったのも?」

「はい。前日に医師のところへ」

「続けてください」

「そのあとは、朝食の献立を料理長と確認しました」

「献立も奥様が?」

「義母は塩分を控えるように言われています。夫は豆を食べません。義弟は乳製品で腹を壊しますので」


朝食だけで3人分の事情が出てきた。

エルネスタは余白へ、それぞれの名を書き添えた。


「食後は、領地から届いた手紙を読みました」

「何通ですか?」

「昨日は11通です」

「お返事は?」

「急ぎのものだけ、5通ほど」

「ご自身で?」

「ええ。ただ、夫の名で出します」


婦人は、それが当然だという顔をした。


「そのあと、使用人2人の面談をしました。厨房の下働きの娘が辞めたいと言っていて……ああ、でも、これは家令の仕事ですね」

「昨日、家令が面談を?」

「いいえ。私が」

「では、奥様がなさった仕事です」

「でも、家令に頼まれただけですから」

「頼まれて行ったことは、行っていないことになりますか?」


婦人は黙った。

エルネスタは、少し言い方が強かったかと思った。


「あの、責めているわけではありません」

「分かっています」

「ただ、事実を分けたいのです。頼まれたことと、実際に行ったことを」

「……はい」

「面談のあとは?」

「冬用の薪の見積書を確認しました。昨年より高くなっていたので、別の商会にも問い合わせを」

「何軒へ?」

「3軒です」

「その後は?」

「義母を医師のところへ連れていきました」

「馬車で?」

「ええ」

「片道は?」

「40分ほどでしょうか」

「診察時間を含めると?」

「2時間くらいです」


エルネスタは時計を見た。

まだ午前の話しかしていない。


「昼食後は、夫の夜会服が仕上がったので、仕立屋を呼びました。肩がきついと申していましたから、直しを頼んで」

「ご主人は採寸に立ち会いましたか?」

「いいえ。出かけていました」

「寸法は、どのように?」

「私が分かりますので」


婦人の声が少し小さくなった。


「6年も一緒にいれば、それくらいは」


夫婦らしいことは何もしていなかった。

先ほど、婦人はそう言われたと話した。

それでも、夫の肩幅は知っている。

食べない物も、着心地の悪い箇所も、帰宅する時間も知っているのだろう。


「午後は?」

「夕食会の席順を決めました。夫と仲の悪い方が2人いらしたので、離して」

「夕食会は何名でしたか?」

「18名です」

「招待状も奥様が?」

「はい」

「献立は?」

「料理長と相談しました」

「贈り物は?」

「帰りにお渡しする菓子を、人数分」

「会話のお相手も?」


婦人は、今度こそ少し笑った。


「それは、妻ですので」


エルネスタのペンが止まった。


「妻であれば、仕事ではないと?」

「そういうものではありませんか?」


エルネスタは答えず、カウンターの奥を見た。

サロメはまだ帳簿を読んでいる。


「店主」

「聞いています」

「何もおっしゃらないのですか?」

「今は、あなたの担当でしょう」

「そうですが」

「困ったときだけ師匠を呼ばないでください」


婦人が、2人を交互に見た。


「すみません。まだ、こちらへ来て日が浅くて」

「3か月です」


サロメが訂正する。


「日が浅いと言っても許されるのは、そろそろ終わりですね」

「今、お客様の前でおっしゃいますか?」

「あとで言うと忘れますから」


エルネスタは小さく息を吐き、婦人へ向き直った。


「失礼しました」

「いえ。少し、安心しました」

「安心?」

「皆様、もっと恐ろしい方なのかと」


サロメが帳簿から顔を上げた。


「誰がそのような噂を?」

「夫が」

「では、鑑定料へ悪評被害を加えるか検討しましょう」

「店主」

「冗談です。半分は」


婦人の顔が、ようやく少しだけ緩んだ。

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