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婚約破棄鑑定士は、恋を値切らない  作者: くるみ
序章 婚約破棄の値段

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第5話 国王陛下、来店

今度の足音は急いでいなかった。

だからこそ、店の外にいる者の身分が、扉が開く前から分かる気がした。


扉の向こうに立っていたのは、国王陛下だった。

王冠はかぶっていない。

濃紺の外套に、護衛が2人。

後ろには、書類箱を抱えた王宮文書官が控えている。

それでも、見間違えるはずはなかった。

肖像画より少し老けていたが、肖像画よりは話が通じそうな顔をしている。


「父上」


王太子殿下の声が裏返った。


「どうして、ここに」

「それはこちらの台詞だ」


国王陛下は店内を見回した。

銀秤。

黒く濁った炎。

7冊の手帳。

封書の控えを手にしているエルネスタ嬢。

王太子殿下と、その後ろに隠れている桃色の少女。

状況を理解するまでに、それほど時間はかからなかったらしい。


「鑑定中の書類へ手を伸ばしていたようだが」

「触れてはいません」


王太子殿下は即座に答えた。


「そうか。では、触れる前に間に合ったのだな」

「誤解です。僕はただ、この女が」

「この方は、王国認可の契約損害鑑定士だ」


国王陛下は私を見た。


「サロメ・ヴァイス殿。夜分に失礼する」

「閉店後ですので、時間外料金が発生しております」


護衛の1人が目を見開いた。

国王陛下は、ほんの少しだけ口元を緩めた。


「王家へ請求してくれ」

「承知いたしました」

「父上!」

「お前は少し黙れ」


王太子殿下が黙った。

先ほどから、この店ではよく黙らされている。

国王陛下はエルネスタ嬢へ向き直った。


「クロイツ伯爵令嬢」

「はい、陛下」


エルネスタ嬢は立ち上がり、礼を取ろうとした。


「そのままでよい」

「ですが」

「今夜、王家へ示すべき礼は、すでに十分に尽くしただろう」


エルネスタ嬢は、ゆっくりと腰を下ろした。

国王陛下の視線が、カウンターの上の婚約破棄証明書へ移る。


「その書面を見せてもらえるか」

「鑑定中の証拠品ですが、陛下であれば」


私は書面を渡した。

王太子殿下には触らせなかったが、国王陛下には渡す。

身分に弱いのではない。

発行権限を確認しているだけである。

国王陛下は、書面の最初から最後まで目を通した。


「これは誰が作成した」

「僕です」


王太子殿下が答えた。


「文書官に書かせました」

「私の承認は?」

「必要ないと思いました。僕の婚約ですから」


国王陛下は顔を上げた。


「お前の婚約であると同時に、王家とクロイツ伯爵家との契約だ」

「ですが、結婚するのは僕です」

「だから、婚約を解消する意思を持つこと自体は否定していない」


国王陛下は、書面の1文を指で叩いた。


「問題は、なぜ相手の名誉を傷つける必要があったのかだ」

「事実です。彼女には慈愛がありません」

「どのような行為を見て、そう判断した」

「僕を愛していませんでした」

「それは慈愛ではなく、恋愛感情の話ではないか?」


王太子殿下は口を開いたまま止まった。

国王陛下は続ける。


「それに、心を欺いたとある。令嬢は、お前を愛していると偽ったのか」

「いいえ。ですが、婚約者なら普通は」

「尋ねたことは?」

「何をですか」

「自分を愛しているかと」


王太子殿下は答えなかった。

桃色の少女が、おろおろと2人を見比べている。

国王陛下は息を吐いた。


「なるほど。尋ねてもいないことを答えなかったので、欺かれたと」

「言わなくても分かることがあります」

「それなら、令嬢が3年間何をしていたかも、言われなくても分かったはずだな」


王太子殿下の視線が、7冊の手帳へ向いた。


「それは……僕には、報告されていませんでした」

「報告されなければ、存在しないのか」

「そういう意味では」

「では、どういう意味だ」


殿下は答えられなかった。

国王陛下は私へ書面を返した。


「鑑定は終わったのか」

「仮算定までです」

「結果を聞いても?」

「金貨84,000枚です。王宮資料との照合で変動する可能性はあります」


王宮文書官が、書類箱を落としかけた。

護衛の1人が咳をした。

国王陛下は表情を変えなかった。


「内訳は」


私は黒い帳簿を開いた。


「王太子妃教育3年分のうち、婚約解消後も本人に残る知識を差し引いた拘束時間。外交文書96件の下訳および修正。式典代行42回。外交問題を含む失言の事後対応13件。名前の誤り28回」

「名前?」

「28回です」


エルネスタ嬢が訂正するように言った。


「先ほどのご来店時に、1回増えました」


国王陛下が、ゆっくりと王太子殿下を見る。


「お前は3年間婚約していた女性の名を、28回間違えたのか」

「細かい間違いです」

「婚約者の名前が?」

「似た名前が多いので」

「彼女の名は何だ」


王太子殿下は口を開いた。

エルネスタ嬢は無表情だった。

私は少し緊張した。


「……エルネスタ・クロイツ」


正解だった。

さすがに今は覚えたらしい。


「よろしい」


国王陛下はうなずいた。


「今後も忘れぬように」

「父上、まさか本当に金貨84,000枚を支払うおつもりですか」

「鑑定内容を精査したうえで、王家が負うべき分と、お前個人が負うべき分を分ける」

「王家が?」

「令嬢に公務を任せていた以上、すべてをお前個人の問題にはできない」


国王陛下は、エルネスタ嬢へ頭を下げた。

護衛も文書官も、息を止めた。

王太子殿下だけが、何が起きたのか分からない顔をしている。


「クロイツ伯爵令嬢。王家を代表し、謝罪する」

「陛下」

「お前の働きを受け取りながら、それを正式な職務として記録せず、当然のものとして扱った。王太子の監督についても、私に責任がある」

「頭をお上げください」

「謝罪は、受け取ってもらえるだろうか」


エルネスタ嬢は、すぐには答えなかった。

国王の謝罪を断るわけにはいかない。

だからといって、何もなかったように許せばよいわけでもない。

彼女は少し考えたあと、言った。

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