第4話 金貨84,000枚
乱暴に開けられた扉から夜気が入り込み、燭台の火が一斉に傾いた。
狭い店の中だけが、王宮の夜会から切り離された別の場所になったようだった。
「何だ、それは」
「婚約破棄証明書と、3年分の記録が一致していない部分があります」
私は帳簿を開いた。
「証明書には、エルネスタ様が王太子妃にふさわしい慈愛を欠き、殿下の心を欺いたとあります」
「そうだ」
「ところが、提出された記録からは、その記載を裏づける具体的な事実が確認できません」
「彼女は僕を愛していなかったんだぞ」
「エルネスタ様ご本人も、恋愛感情はなかったと証言されています」
「ほら見ろ!」
「ですが、愛していると偽った記録もありません」
殿下が口を閉じた。
「さらに、3年間に行われた公務補助については、日時、書類、証人名が残っています。これらを王宮側の記録と照合します」
「そこまでするのか」
「高額な請求になりますので」
私は手帳を1冊開いた。
「王太子妃教育、3年分」
「それは彼女の務めだ」
「婚約を維持するのであれば、将来の地位に伴う準備とみなすこともできます」
「そうだろう」
「殿下は、その将来の地位を一方的に取り上げました」
王太子殿下が口を閉じる。
「したがって、準備に費やした時間と労力の一部は、契約上の損害として算定対象になります」
「一部?」
エルネスタ嬢が尋ねた。
「すべてではありません。身につけた語学や法律の知識は、今後もエルネスタ様ご自身のものとして残りますので」
「承知しました」
エルネスタ嬢は素直にうなずいた。
殿下はなぜか勝ち誇った。
「ほら。すべてが無駄になったわけではない」
「ええ」
エルネスタ嬢が殿下を見る。
「おかげさまで、今後、どなたと婚約しても殿下より楽だと思える程度には、経験を積ませていただきました」
「どういう意味だ」
「そのままの意味です」
桃色の少女が、おずおずと口を開いた。
「でも、エルネスタ様は冷たい方です」
エルネスタ嬢が少女へ目を向ける。
少女は1度ためらったものの、王太子殿下の腕を握り直した。
「いつも殿下に微笑むだけで、優しい言葉をかけなかったと聞いています。殿下がお疲れでも、休ませてさしあげなかったとか」
「式典の開始前に、殿下が帰ろうとなさったときのことでしょうか」
「ほら、やっぱり」
「隣国の国王夫妻をお迎えする式典でしたので」
「少しくらい、お休みになっても」
「隣国の国王夫妻を待たせて?」
「殿下がおかわいそうです」
「殿下は23歳です」
店内が少し静かになった。
殿下は不満そうだった。
少女は困った顔をした。
私は咳払いをした。
「続きをよろしいですか?」
「待て。まだ僕は納得していない」
「納得は鑑定の成立条件ではありません。ただし、正式な請求には資料照合と当事者間の手続きが必要です」
「僕は王太子だぞ」
「そちらは算定上、むしろ軽くなりません」
「何を?」
「王族という立場で、公の夜会において相手方を非難したことです」
殿下はまた黙った。
今日はよく黙る日である。
私は銀秤へ指を添えた。
「現時点の資料だけで、仮算定します」
手帳の頁を1つずつ確認していく。
「王太子妃教育、3年分」
仮の数字を書き込む。
「外交文書下訳、96件」
「そんなにあったか?」
「日時と文書名が記録されています」
エルネスタ嬢が答えた。
「式典代行、42回」
「僕が欠席したのは、体調が悪かったからだ」
「うち34回は、狩猟または観劇の記録があります」
「なぜ知っている!」
「欠席理由を調整する必要がありましたので」
エルネスタ嬢は少し首をかしげた。
「殿下ご自身が、私にお伝えになりました」
「そうだったか?」
「はい」
「失言への事後対応、13回」
「失言ではない。少し表現を間違えただけだ」
「そのうち5回は、外交問題になりかけております」
「なっていないだろう」
「エルネスタ様が対応したからです」
殿下は不服そうに鼻を鳴らした。
私は続ける。
「名前間違い、28回」
「……それも金になるのか?」
「1回ごとの金額はわずかです」
「なら、問題ないだろう」
「28回分になります」
エルネスタ嬢が静かに付け加えた。
殿下は彼女を睨んだ。
「公開の場での名誉上の損害、および根拠の確認できない記載を含む婚約破棄文書、1件」
銀秤の黒い濁りが強くなる。
私は王太子殿下を見る。
「王宮記録との照合前ですので、これは仮鑑定額です」
「いくらだ」
「金貨84,000枚」
王太子殿下が叫んだ。
「馬鹿な!」
「私も、驚きました」
エルネスタ嬢が言った。
殿下は勢いよく彼女を振り返った。
「君は、自分が金貨84,000枚もする女だと思うのか!」
「いいえ」
エルネスタ嬢は首を横に振った。
「それでは安すぎます」
殿下の顔が赤くなる。
私は吹き出しそうになり、帳簿へ視線を落とした。
「さらに、文書の記載が王宮資料と一致しない場合は、訂正手続きも必要です」
「ふざけるな!」
「正式な鑑定書は照合後に作成します」
「誰が払うものか!」
王太子殿下が、カウンターの上の書類へ手を伸ばした。
私は黒い帳簿を胸元へ引き寄せ、銀秤の前に肘を置いた。
鑑定中の証拠品へ勝手に触れられるのは困る。
何より、頁が折れる。
エルネスタ嬢は慌てなかった。
7冊の手帳が置かれた鞄の底から、封書の控えを1枚取り出した。
私は思わず目を見開いた。
そこまで用意していたのか。
「殿下」
エルネスタ嬢が、封書の控えを開く。
「本日、この店へ来られると思っておりました」
「何?」
「ですので、事前に報告してあります」
「誰にだ」
エルネスタ嬢は答えなかった。
その必要がなくなったからである。
店の外で、馬車の扉が閉まる音がした。
先ほどより少ない足音が、こちらへ近づいてくる。
急いではいない。
けれど、誰もその歩みを止められないことが、音だけで分かった。
王太子殿下の手が、書類の上で止まった。
「まさか」
殿下の声が、初めて小さくなった。
扉の鐘が、今夜3度目の音を立てた。




