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婚約破棄鑑定士は、恋を値切らない  作者: くるみ
序章 婚約破棄の値段

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3/22

第3話 28回目ですね

閉店後の通りから人の声は消えていた。

その静けさを押し破るように馬車が止まり、濡れた石壁へ靴音がいくつも跳ね返った。


「エルミーナ!」


扉を開けるなり、王太子殿下はそう叫んだ。

エルネスタ嬢は何も言わず、カウンターに積まれた手帳のうち、1冊を開いた。

頁の端へ、日付と時刻を書き込む。


「28回目ですね」

「何がだ?」

「いいえ。お気になさらず」


王太子殿下は気にしなかった。

本当に気にしなかった。

少しくらい考えてもよさそうなものだが、自分の声が店内へよく響いたことに満足したらしく、胸を張っている。


金の刺繍を施した外套。

磨き上げられた長靴。

そして、自分が物語の主人公であると信じて疑わない顔。

なるほど、王太子殿下だった。


その後ろには、桃色のドレスを着た少女が寄り添っていた。

ふわりと巻いた栗色の髪に、大きな青い瞳。

胸元には、王太子殿下の瞳と同じ色の宝石が輝いている。

噂の真実の愛だろう。

少女は私と目が合うと、小さく肩を震わせた。

まだ何もしていない。

私は閉店後の店へ勝手に入られただけである。


「こんな怪しい店に来るとは、やはり君は心が卑しい」

「それが、ご用件ですか」

「今は用件の話をしているのではない!」


用件を話していないのは殿下のほうだと思ったが、口には出さなかった。

代わりにエルネスタ嬢が、手帳へ何かを書き足した。


「何を書いた?」

「『来店直後より侮辱的発言』と」

「何のために?」

「記録です」


王太子殿下は、ますます険しい顔になった。


「婚約がなくなった腹いせに、何を企んでいる」

「腹いせではありません。鑑定をお願いしています」

「同じことだ!」

「違うと思いますが」

「君はいつもそうだ。人の言葉尻ばかりを捉えて、まるで自分だけが正しいような顔をする」


エルネスタ嬢は答えなかった。

ただ、今度は別の頁を開いた。


「2年前の10月にも、同じご指摘をいただきました」

「……何?」

「その際には、隣国の王弟殿下を『あの太った男』とお呼びになるのは、外交上適切ではないと申し上げました」

「ここで関係のない話を持ち出すな」

「そうですね。失礼いたしました」


エルネスタ嬢は手帳を閉じた。

謝罪の言葉は素直だったが、反省しているようには見えなかった。

王太子殿下も同じことを感じたらしい。

何かを言おうと口を開いたので、私はカウンターから出た。


「殿下」

「何だ」

「ここは王国認可の鑑定所です。営業妨害は銀貨30枚からになります」

「営業妨害?」

「閉店後ですので、時間外料金も加わります」

「黙れ。平民が王族に口を出すな」


私は壁に掛けられた営業許可証を指さした。


「初代女王陛下より、王族に口を出すことを許されております」

「初代女王は200年前の人間だろう!」

「許可証は先月更新しました」


殿下は壁を見た。


王国認可契約損害鑑定所。

王族を含むすべての臣民について、契約上の損害を鑑定する権限を認める。

その下には、国王陛下の署名がある。


殿下は許可証を見なかったことにした。

桃色の少女が、そっと殿下の袖を引く。


「殿下、怖いです」

「大丈夫だ。僕が守る」

「あの人、きっとエルネスタ様に雇われた悪い魔女です」


私は自分の黒い作業服を見下ろした。

黒い服。

黒い髪。

銀秤。

壁一面の薬瓶と、乾燥させた薬草。

まあ、否定しきれない。


「ご安心ください。魔女ではありません。鑑定士です」

「でも、魔法を使うのでしょう?」

「業務上、少々」

「やっぱり魔女ではありませんか」

「資格が違います」


少女は納得しなかった。

殿下も興味がないらしい。


「とにかく、帰るぞ、エルネスタ」

「お断りします」

「何?」


エルネスタ嬢は、手帳を開いたまま答えた。


「婚約はすでに破棄されています。殿下の命令で帰る理由はありません」

「好きにしろ!」


名前だけは覚えたらしい。

少なくとも、今のところは。

エルネスタ嬢が椅子から立とうとしたので、私は手で制した。


「まだ鑑定が終わっておりません」

「こんなものに付き合う必要はない」


王太子殿下が、カウンターの上の婚約破棄証明書を取り上げようとする。

私は先に書面を押さえた。


「鑑定中の証拠品には触れないでください」

「僕が発行した書面だ」

「現在は当店がお預かりしています」

「返せ」

「お断りします」


殿下は、信じられないという顔をした。

おそらく、断られた経験が少ないのだろう。

今後は増えるかもしれない。


「この女は、僕の元婚約者だ」

「存じております」

「なら、僕が連れて帰ることに何の問題がある」

「元婚約者なのでしょう?」


殿下が黙った。

自分で破棄した婚約に、まだ命令権だけは残っていると思っていたらしい。


「エルネスタ嬢は、ご自身の意思で当店へ来られました」

「彼女は混乱しているんだ」

「していらっしゃいますか?」


私が尋ねると、エルネスタ嬢は少し考えた。


「今月の予定がすべて空きましたので、その点では困惑しております」

「ほら、混乱しているではないか」

「混乱ではなく、予定の空白についてです」

「同じことだ」

「違うと思います」

「またそれか!」


殿下の声が大きくなる。

棚に置いてあった小瓶が、かすかに揺れた。

割られたら代金を請求しよう。


「せっかくですので」


私は銀秤を、王太子殿下の前へ置いた。


「今ここで、婚約破棄の仮鑑定をしましょう」

「価値だと?」

「はい。殿下が壊した契約についてです」


王太子殿下は笑った。


「僕は真実の愛を選んだだけだ」


少女が殿下の腕へ身を寄せた。

2人は互いを見つめ合う。

2人の間に恋情があるのかどうかを、私の秤が決めることはできない。


だが、それを理由に壊した契約の後始末は別である。

私は恋を罰する商売をしているわけではない。

恋のために壊したものを、無料にさせないだけだ。


「では、提出された資料を確認します」


私は婚約破棄証明書を銀秤の皿へ載せた。

片方の皿が、ゆっくりと沈む。

続いて、エルネスタ嬢の手帳を1冊ずつ重ねた。


1冊目。2冊目。3冊目。

青い炎が揺れる。


4冊目。5冊目。

炎の縁が白く変わる。


6冊目。7冊目。

やがて、炎の一部が黒く濁った。


黒い反応は、提出された資料同士に重大な食い違いがあるときに出る。

誰が嘘をついたのかまでは教えてくれない。

店内の空気が重くなった。

王太子殿下の顔から、笑みが消える。

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