第3話 28回目ですね
閉店後の通りから人の声は消えていた。
その静けさを押し破るように馬車が止まり、濡れた石壁へ靴音がいくつも跳ね返った。
「エルミーナ!」
扉を開けるなり、王太子殿下はそう叫んだ。
エルネスタ嬢は何も言わず、カウンターに積まれた手帳のうち、1冊を開いた。
頁の端へ、日付と時刻を書き込む。
「28回目ですね」
「何がだ?」
「いいえ。お気になさらず」
王太子殿下は気にしなかった。
本当に気にしなかった。
少しくらい考えてもよさそうなものだが、自分の声が店内へよく響いたことに満足したらしく、胸を張っている。
金の刺繍を施した外套。
磨き上げられた長靴。
そして、自分が物語の主人公であると信じて疑わない顔。
なるほど、王太子殿下だった。
その後ろには、桃色のドレスを着た少女が寄り添っていた。
ふわりと巻いた栗色の髪に、大きな青い瞳。
胸元には、王太子殿下の瞳と同じ色の宝石が輝いている。
噂の真実の愛だろう。
少女は私と目が合うと、小さく肩を震わせた。
まだ何もしていない。
私は閉店後の店へ勝手に入られただけである。
「こんな怪しい店に来るとは、やはり君は心が卑しい」
「それが、ご用件ですか」
「今は用件の話をしているのではない!」
用件を話していないのは殿下のほうだと思ったが、口には出さなかった。
代わりにエルネスタ嬢が、手帳へ何かを書き足した。
「何を書いた?」
「『来店直後より侮辱的発言』と」
「何のために?」
「記録です」
王太子殿下は、ますます険しい顔になった。
「婚約がなくなった腹いせに、何を企んでいる」
「腹いせではありません。鑑定をお願いしています」
「同じことだ!」
「違うと思いますが」
「君はいつもそうだ。人の言葉尻ばかりを捉えて、まるで自分だけが正しいような顔をする」
エルネスタ嬢は答えなかった。
ただ、今度は別の頁を開いた。
「2年前の10月にも、同じご指摘をいただきました」
「……何?」
「その際には、隣国の王弟殿下を『あの太った男』とお呼びになるのは、外交上適切ではないと申し上げました」
「ここで関係のない話を持ち出すな」
「そうですね。失礼いたしました」
エルネスタ嬢は手帳を閉じた。
謝罪の言葉は素直だったが、反省しているようには見えなかった。
王太子殿下も同じことを感じたらしい。
何かを言おうと口を開いたので、私はカウンターから出た。
「殿下」
「何だ」
「ここは王国認可の鑑定所です。営業妨害は銀貨30枚からになります」
「営業妨害?」
「閉店後ですので、時間外料金も加わります」
「黙れ。平民が王族に口を出すな」
私は壁に掛けられた営業許可証を指さした。
「初代女王陛下より、王族に口を出すことを許されております」
「初代女王は200年前の人間だろう!」
「許可証は先月更新しました」
殿下は壁を見た。
王国認可契約損害鑑定所。
王族を含むすべての臣民について、契約上の損害を鑑定する権限を認める。
その下には、国王陛下の署名がある。
殿下は許可証を見なかったことにした。
桃色の少女が、そっと殿下の袖を引く。
「殿下、怖いです」
「大丈夫だ。僕が守る」
「あの人、きっとエルネスタ様に雇われた悪い魔女です」
私は自分の黒い作業服を見下ろした。
黒い服。
黒い髪。
銀秤。
壁一面の薬瓶と、乾燥させた薬草。
まあ、否定しきれない。
「ご安心ください。魔女ではありません。鑑定士です」
「でも、魔法を使うのでしょう?」
「業務上、少々」
「やっぱり魔女ではありませんか」
「資格が違います」
少女は納得しなかった。
殿下も興味がないらしい。
「とにかく、帰るぞ、エルネスタ」
「お断りします」
「何?」
エルネスタ嬢は、手帳を開いたまま答えた。
「婚約はすでに破棄されています。殿下の命令で帰る理由はありません」
「好きにしろ!」
名前だけは覚えたらしい。
少なくとも、今のところは。
エルネスタ嬢が椅子から立とうとしたので、私は手で制した。
「まだ鑑定が終わっておりません」
「こんなものに付き合う必要はない」
王太子殿下が、カウンターの上の婚約破棄証明書を取り上げようとする。
私は先に書面を押さえた。
「鑑定中の証拠品には触れないでください」
「僕が発行した書面だ」
「現在は当店がお預かりしています」
「返せ」
「お断りします」
殿下は、信じられないという顔をした。
おそらく、断られた経験が少ないのだろう。
今後は増えるかもしれない。
「この女は、僕の元婚約者だ」
「存じております」
「なら、僕が連れて帰ることに何の問題がある」
「元婚約者なのでしょう?」
殿下が黙った。
自分で破棄した婚約に、まだ命令権だけは残っていると思っていたらしい。
「エルネスタ嬢は、ご自身の意思で当店へ来られました」
「彼女は混乱しているんだ」
「していらっしゃいますか?」
私が尋ねると、エルネスタ嬢は少し考えた。
「今月の予定がすべて空きましたので、その点では困惑しております」
「ほら、混乱しているではないか」
「混乱ではなく、予定の空白についてです」
「同じことだ」
「違うと思います」
「またそれか!」
殿下の声が大きくなる。
棚に置いてあった小瓶が、かすかに揺れた。
割られたら代金を請求しよう。
「せっかくですので」
私は銀秤を、王太子殿下の前へ置いた。
「今ここで、婚約破棄の仮鑑定をしましょう」
「価値だと?」
「はい。殿下が壊した契約についてです」
王太子殿下は笑った。
「僕は真実の愛を選んだだけだ」
少女が殿下の腕へ身を寄せた。
2人は互いを見つめ合う。
2人の間に恋情があるのかどうかを、私の秤が決めることはできない。
だが、それを理由に壊した契約の後始末は別である。
私は恋を罰する商売をしているわけではない。
恋のために壊したものを、無料にさせないだけだ。
「では、提出された資料を確認します」
私は婚約破棄証明書を銀秤の皿へ載せた。
片方の皿が、ゆっくりと沈む。
続いて、エルネスタ嬢の手帳を1冊ずつ重ねた。
1冊目。2冊目。3冊目。
青い炎が揺れる。
4冊目。5冊目。
炎の縁が白く変わる。
6冊目。7冊目。
やがて、炎の一部が黒く濁った。
黒い反応は、提出された資料同士に重大な食い違いがあるときに出る。
誰が嘘をついたのかまでは教えてくれない。
店内の空気が重くなった。
王太子殿下の顔から、笑みが消える。




