第2話 7冊の手帳
店の奥では、乾いた紙と薬草の匂いが混じっていた。
外の雨音は壁に吸われ、卓上の銀だけが冷たい光を返している。
「反応は小さいですね」
「それは、私が薄情だという意味でしょうか」
「いいえ。感情の大きさは罪ではありません。当店では、恋心の量による追加料金も取っておりません」
「そうですか」
「安心なさいました?」
「少し」
正直な人だ。
私は青い炎から目を離し、本人を見る。
「この反応だけでは、何への感情か分かりません。ですから、ご本人に伺います」
「はい」
「殿下を愛していましたか」
エルネスタ嬢は目を伏せた。
否定するかと思った。
少なくとも、少しは取り繕うものだと思っていた。
「いいえ」
返事は短かった。
「つまり、あなたは殿下を愛していなかった」
「はい」
「ずいぶんあっさり認めるのですね」
「嘘をつけば、そちらの秤に分かるのでしょう?」
「分かりません」
「そうなのですか」
「残念そうですね」
「少し」
先ほどから、この令嬢は意外と正直だった。
「では、なぜ買い取りを?」
「悔しいからです」
「悔しい?」
「愛していなかったことと、侮辱されて平気なことは別です」
エルネスタ嬢は、膝の上で両手を重ねていた。
指先に力が入っている。
「私は3年間、王太子妃教育を受けました。
殿下のおそばに立つためではありません。
殿下が次代の王として、恥をかかないようにするためです」
淡々とした声だった。
恨みを吐き出しているようには聞こえない。
だからこそ、1つ1つの言葉が妙にはっきりと残った。
「外交儀礼を学びました。
歴史も、法律も、税制も。
殿下がお嫌いな外国語も、代わりに読みました。
式典で殿下が欠席されたときには、王家の名代として頭を下げました」
「それを、王太子殿下はご存じで?」
「一部は」
「一部だけですか」
「ええ。私が済ませたあとで、もう終わっているとお伝えすることが多かったので」
「なぜです?」
「殿下は、途中経過をお聞きになると退屈なさいます」
聞いただけで退屈してきた。
もちろん、元王太子妃にではなく、王太子の将来にである。
「それでも、私は務めを果たしたつもりです。
殿下を愛していたからではありません。
婚約をお受けした以上、そうすべきだと思ったからです」
エルネスタ嬢は、カウンターの上に置かれた婚約破棄証明書を見た。
「それを、慈愛がないと言われました」
「なるほど」
「しかも、殿下の心を欺いた、と」
「殿下を愛しているとお伝えしたのですか」
「いいえ」
「愛していないと?」
「尋ねられたことがありません」
私は椅子の背にもたれた。
それは欺いたとは言わない。
恋が終わったから泣くのではない。
自分の時間を軽んじられたから泣くのだ。
尽くした努力を、たった一言で汚されたから怒るのだ。
そういう客は、珍しくない。
ただ、ここまで整然と話す客は珍しかった。
「分かりました」
私は銀秤の下から、黒い帳簿を取り出した。
表紙には《契約損害鑑定記録》と金文字で記されている。
「未練の品としての買い取り額は、ごく小さくなります」
「構いません」
「代わりに、名誉上の損害および契約上の損害として鑑定します」
エルネスタ嬢の目が、わずかに細くなった。
「そのような鑑定も?」
「ええ。買い取りとは別の業務です。ただし、請求額は高くなる可能性があります」
「私が払うのですか?」
「いいえ」
私は証明書の王家の封蝋を、爪先で軽く叩いた。
「証拠が認められれば、破棄した側へ請求します」
エルネスタ嬢は数秒、黙っていた。
それから、頬に残っていた涙の跡を指先で拭った。
「では、できるかぎり正確にお願いいたします」
「正確に?」
「はい。多くも、少なくもなく」
「お優しいですね」
「いいえ」
彼女は小さな鞄へ手を入れた。
「証拠なら、持ってきました」
最初に出てきたのは、分厚い手帳だった。
次に、同じ装丁の手帳。
さらに、もう1冊。
4冊。5冊。6冊。
7冊目がカウンターに置かれたところで、私は黙って帳簿を少し横へよけた。
「すべて、王太子妃教育を始めてからの記録です」
「ずいぶんありますね」
「3年分ですので」
「拝見しても?」
「どうぞ」
1冊目を開く。
日付、時刻、場所。
同席者。
王太子の発言。
エルネスタ嬢が行った対応。
どの頁も、細かな文字で埋め尽くされていた。
「……殿下は、あなたの名前を間違えているのですか」
「はい」
「何度ほど?」
「これまでで合計27回です」
私は顔を上げた。
「27回も......?」
「エルネスタをエルミーナと18回。エリザベータと6回。エルネスティーネと3回」
「よく数えましたね」
「王太子妃教育の一環で、記録癖がつきました」
素晴らしい。
私は職業柄、記録癖のある令嬢が好きだ。
復讐において、感情より記録のほうが強い。
「証人名も?」
「すべて記載しています」
「修正した公文書は?」
「写しがあります」
「式典代行の記録」
「王宮の出席簿と照合できます」
「殿下の失言への対応は?」
「13件あります。うち5件は外交問題になりかけました」
私は手帳を閉じた。
それから、目の前の令嬢を見た。
白い礼服。
乾いた涙の跡。
乱れていない髪。
7冊の手帳。
「エルネスタ様」
「はい」
「当店で働く気はありませんか」
彼女が初めて、明らかに困った顔をした。
「婚約破棄の鑑定をお願いしている最中ですが」
「そうでした」
つい本音が出た。
私は黒い帳簿を開き、最初の頁へ日付を書き入れた。
「では、まず殿下に請求する金額から決めましょう」
「お願いいたします」
そのとき、店の外で馬車の車輪が止まった。
続いて、数人分の足音。
1人はひどく歩幅が大きく、もう1人は何度も小走りになっている。
エルネスタ嬢が、扉へ目を向けた。
「お知り合いですか」
「おそらく」
「おそらく?」
「殿下は、私が大人しく屋敷へ帰ると思っていらっしゃいます」
「帰らなかったので、心配で追ってきたと」
「いいえ」
エルネスタ嬢は、7冊の手帳の上へ手を置いた。
「私が何かを企んでいると、怒りに来られたのだと思います」
店の扉が、外から乱暴に押された。
鐘が、今夜2度目の音を立てた。
閉店時間は、とうに過ぎていた。
追加料金を取ろう。
私はそう決めた。




