表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
婚約破棄鑑定士は、恋を値切らない  作者: くるみ
序章 婚約破棄の値段

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
1/11

第1話 この婚約破棄、いくらになりますか

王都の裏通りは、日が落ちると急に狭くなる。

軒の深い店々が灯りを落とし、雨に濡れた石畳だけが、昼間の人波を覚えているように鈍く光っていた。


王都には、婚約破棄を買い取る店がある。店の名は、《未練商会》。

扱う品は宝石でも絹でもなく、終わった恋である。

そう看板に書いてあるのだから、店へ来る客は皆、何を買い取ってもらえるのか分かったうえで扉を開ける。それでも、最初の一言は人によって違う。


「まだ間に合いますか」と尋ねる者。

「全部、あの人が悪いのです」と泣き出す者。

ひどいときには、婚約者本人を連れてきて、どちらの未練が高いか競わせようとする者までいる。

そういう客には、先に喧嘩の仲裁料を請求することにしていた。


その夜、閉店の札を出そうとしたところで、扉の鐘が鳴った。


「この婚約破棄、いくらになりますか」


ずいぶん話が早い。

私は持ち上げかけていた帳簿を、元の場所へ戻した。


扉の前に立っていたのは、白い礼服を着た令嬢だった。

夜会帰りらしい。

銀糸を織り込んだドレスの裾には、雨に濡れた跡があった。

髪には真珠が挿してあり、化粧もほとんど崩れていない。

ただ、頬に1本だけ、乾ききっていない涙の筋が残っていた。泣いてから来たのだろう。

あるいは、来る途中で1度だけ泣き、それ以上は泣かないと決めたのかもしれない。

背筋はまっすぐで、声も震えていなかった。


「まだ営業していますか」

「札を裏返す前でしたので」

「では、間に合ったということでよろしいでしょうか」

「ぎりぎりです」

「よかった」


令嬢は本当に少しだけ安堵した顔をした。婚約を破棄された直後に心配することが、鑑定所の営業時間とは。嫌いではない。


「どうぞ」


私はカウンター前の椅子を示した。

令嬢は一礼してから腰を下ろした。

ドレスの裾を整える動きにも無駄がない。


「お茶は必要ですか」

「査定額に影響しますか」

「しません」

「では、結構です」


やはり話が早い。


私はカウンターの下から、鑑定用の銀秤を取り出した。

正式な名は《価値衡》。

契約書や手紙、帳簿などの資料を載せ、そこに長く残った感情の強さや、提出された記録同士の食い違いを確認するための道具である。


ただし、何でも分かる便利な魔道具ではない。

嘘を見抜くことも、誰が誰を愛しているかを決めることも、起きた出来事を勝手に映し出すこともできない。

証言と記録を集め、何が事実として裏づけられるかを人間が調べたうえで、労働、時間、失った利益、名誉上の損害を算定する。

道具が示すのは手がかりで、答えを出すのは鑑定士の仕事だ。


「お名前を」

「クロイツ伯爵家の娘、エルネスタ・クロイツです」


聞き覚えのある名前だった。


エルネスタ・クロイツ。

王太子の婚約者であり、次代の王太子妃と目されていた令嬢だ。

王宮の夜会へ顔を出すような者なら、知らないほうが難しい。


私は壁に掛けてある営業許可証へ1度だけ目を向けた。

王国認可契約損害鑑定所。

王族も鑑定対象に含む。

そう書いてある。

今さら読む必要はなかったが、読んでおきたくなった。


「破棄した側ですか、された側ですか」

「された側です」

「理由は」


エルネスタ嬢は1拍だけ黙った。

ごく短い沈黙だった。

それでも、彼女がここへ来て初めて見せた迷いだった。


「王太子殿下が、私より真実の愛を選ばれたそうです」


またか、と思った。

王都では近頃、真実の愛が大流行している。

去年は運命の番だった。

その前は魂の伴侶。

言葉だけが変わり、中身はあまり変わらない。


真実の愛は便利な言葉だ。

責任を逃がし、約束を焼き、周囲の迷惑を美談に変える。

本人たちが幸福なら、それでよいという考えもある。

私も恋愛は自由だと思っている。ただし、自由と無料は別だ。


「本日の夜会で?」

「はい」

「大勢の前で?」

「おそらく、150人ほどいらしたかと」

「数えたのですか」

「招待客の名簿を作成したのは私ですから」


エルネスタ嬢は、そこで1度だけ唇を結んだ。


なるほど。

自分で招いた150人の前で、婚約を破棄されたらしい。

王太子殿下は、なかなか思い切ったことをなさる。

賠償額の意味でも。


「では、婚約破棄証明書を拝見します」


エルネスタ嬢は白い小さな鞄を開けた。

中から取り出されたのは、王家の紋章が入った封書だった。

夜会で婚約を破棄してから作成したにしては、ずいぶん準備のよい書面である。

つまり、少なくとも王太子殿下は、今夜より前から婚約を破棄するつもりだった。

エルネスタ嬢へは知らせず、公文書だけは用意していたらしい。


「開封しても?」

「どうぞ」


封蝋を割る。

上質な紙には、美しい文字が並んでいた。

クロイツ伯爵令嬢エルネスタとの婚約を、本日をもって破棄する。

理由は、彼女が王太子妃にふさわしい慈愛を欠き、また王太子殿下の心を欺いたためである。


「殿下の直筆ですか」

「いいえ。王宮文書官の筆跡だと思います」

「発行者は?」

「王太子殿下です」

「国王陛下の承認印がありませんね」

「私も、そこは気になりました」


私も、ということは、すでに1度きちんと読んだらしい。

婚約破棄の直後に。


相当な人物である。

私は銀秤の片方の皿に、婚約破棄証明書を載せた。

金属の皿が、かすかな音を立てて沈む。

もう片方の皿の上に、薄い青色の炎が灯った。

契約に残った強い感情へ反応した色だ。

炎は頼りなく揺れ、指先ほどの大きさで止まった。


私は少し待った。

反応が大きくなることもある。

ただし、この炎だけでは、それが恋情なのか、悔しさなのか、怒りなのかは分からない。

10秒。20秒。なにも変わらない。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ