第1話 この婚約破棄、いくらになりますか
王都の裏通りは、日が落ちると急に狭くなる。
軒の深い店々が灯りを落とし、雨に濡れた石畳だけが、昼間の人波を覚えているように鈍く光っていた。
王都には、婚約破棄を買い取る店がある。店の名は、《未練商会》。
扱う品は宝石でも絹でもなく、終わった恋である。
そう看板に書いてあるのだから、店へ来る客は皆、何を買い取ってもらえるのか分かったうえで扉を開ける。それでも、最初の一言は人によって違う。
「まだ間に合いますか」と尋ねる者。
「全部、あの人が悪いのです」と泣き出す者。
ひどいときには、婚約者本人を連れてきて、どちらの未練が高いか競わせようとする者までいる。
そういう客には、先に喧嘩の仲裁料を請求することにしていた。
その夜、閉店の札を出そうとしたところで、扉の鐘が鳴った。
「この婚約破棄、いくらになりますか」
ずいぶん話が早い。
私は持ち上げかけていた帳簿を、元の場所へ戻した。
扉の前に立っていたのは、白い礼服を着た令嬢だった。
夜会帰りらしい。
銀糸を織り込んだドレスの裾には、雨に濡れた跡があった。
髪には真珠が挿してあり、化粧もほとんど崩れていない。
ただ、頬に1本だけ、乾ききっていない涙の筋が残っていた。泣いてから来たのだろう。
あるいは、来る途中で1度だけ泣き、それ以上は泣かないと決めたのかもしれない。
背筋はまっすぐで、声も震えていなかった。
「まだ営業していますか」
「札を裏返す前でしたので」
「では、間に合ったということでよろしいでしょうか」
「ぎりぎりです」
「よかった」
令嬢は本当に少しだけ安堵した顔をした。婚約を破棄された直後に心配することが、鑑定所の営業時間とは。嫌いではない。
「どうぞ」
私はカウンター前の椅子を示した。
令嬢は一礼してから腰を下ろした。
ドレスの裾を整える動きにも無駄がない。
「お茶は必要ですか」
「査定額に影響しますか」
「しません」
「では、結構です」
やはり話が早い。
私はカウンターの下から、鑑定用の銀秤を取り出した。
正式な名は《価値衡》。
契約書や手紙、帳簿などの資料を載せ、そこに長く残った感情の強さや、提出された記録同士の食い違いを確認するための道具である。
ただし、何でも分かる便利な魔道具ではない。
嘘を見抜くことも、誰が誰を愛しているかを決めることも、起きた出来事を勝手に映し出すこともできない。
証言と記録を集め、何が事実として裏づけられるかを人間が調べたうえで、労働、時間、失った利益、名誉上の損害を算定する。
道具が示すのは手がかりで、答えを出すのは鑑定士の仕事だ。
「お名前を」
「クロイツ伯爵家の娘、エルネスタ・クロイツです」
聞き覚えのある名前だった。
エルネスタ・クロイツ。
王太子の婚約者であり、次代の王太子妃と目されていた令嬢だ。
王宮の夜会へ顔を出すような者なら、知らないほうが難しい。
私は壁に掛けてある営業許可証へ1度だけ目を向けた。
王国認可契約損害鑑定所。
王族も鑑定対象に含む。
そう書いてある。
今さら読む必要はなかったが、読んでおきたくなった。
「破棄した側ですか、された側ですか」
「された側です」
「理由は」
エルネスタ嬢は1拍だけ黙った。
ごく短い沈黙だった。
それでも、彼女がここへ来て初めて見せた迷いだった。
「王太子殿下が、私より真実の愛を選ばれたそうです」
またか、と思った。
王都では近頃、真実の愛が大流行している。
去年は運命の番だった。
その前は魂の伴侶。
言葉だけが変わり、中身はあまり変わらない。
真実の愛は便利な言葉だ。
責任を逃がし、約束を焼き、周囲の迷惑を美談に変える。
本人たちが幸福なら、それでよいという考えもある。
私も恋愛は自由だと思っている。ただし、自由と無料は別だ。
「本日の夜会で?」
「はい」
「大勢の前で?」
「おそらく、150人ほどいらしたかと」
「数えたのですか」
「招待客の名簿を作成したのは私ですから」
エルネスタ嬢は、そこで1度だけ唇を結んだ。
なるほど。
自分で招いた150人の前で、婚約を破棄されたらしい。
王太子殿下は、なかなか思い切ったことをなさる。
賠償額の意味でも。
「では、婚約破棄証明書を拝見します」
エルネスタ嬢は白い小さな鞄を開けた。
中から取り出されたのは、王家の紋章が入った封書だった。
夜会で婚約を破棄してから作成したにしては、ずいぶん準備のよい書面である。
つまり、少なくとも王太子殿下は、今夜より前から婚約を破棄するつもりだった。
エルネスタ嬢へは知らせず、公文書だけは用意していたらしい。
「開封しても?」
「どうぞ」
封蝋を割る。
上質な紙には、美しい文字が並んでいた。
クロイツ伯爵令嬢エルネスタとの婚約を、本日をもって破棄する。
理由は、彼女が王太子妃にふさわしい慈愛を欠き、また王太子殿下の心を欺いたためである。
「殿下の直筆ですか」
「いいえ。王宮文書官の筆跡だと思います」
「発行者は?」
「王太子殿下です」
「国王陛下の承認印がありませんね」
「私も、そこは気になりました」
私も、ということは、すでに1度きちんと読んだらしい。
婚約破棄の直後に。
相当な人物である。
私は銀秤の片方の皿に、婚約破棄証明書を載せた。
金属の皿が、かすかな音を立てて沈む。
もう片方の皿の上に、薄い青色の炎が灯った。
契約に残った強い感情へ反応した色だ。
炎は頼りなく揺れ、指先ほどの大きさで止まった。
私は少し待った。
反応が大きくなることもある。
ただし、この炎だけでは、それが恋情なのか、悔しさなのか、怒りなのかは分からない。
10秒。20秒。なにも変わらない。




