第43話 師匠の鑑定書
朝の店には、まだ客の気配がなかった。
湯の沸く音と紙をめくる音だけがあり、昨夜までの出来事が少し遠くなっていた。
翌朝、エルネスタが出勤すると、サロメはすでに店にいた。
「早いですね」
「私の店です」
「普段は10時ぎりぎりですが」
「今日はたまたまです」
机には、昨日作った鑑定書がある。
その横に、もう1枚。
「これは?」
「修正しました」
エルネスタが読む。
『婚約解消によって生じた喪失について、当事者双方が自らの選択によって生じたものと認識していたことを確認する』
さらに1行。
『自ら選択した喪失であることは、その対象に価値がなかったことを意味しない』
「加えたのですか」
「はい」
「昨日は、値段をつける必要はないと」
「値段はつけていません」
「価値は記録した」
「そうです」
サロメは茶葉を量る。
「あなたがうるさいので」
「私のせいですか」
「半分は」
「残りは?」
「本人からの遺言です」
サロメは短く答えた。
それ以上は聞かなかった。
この鑑定書は裁判へ出すものではない。
誰かから金を取るものでもない。
ただ、2人の選択が存在したと残すための紙だ。
「鑑定料は?」
エルネスタが尋ねる。
「私が依頼人なので、店へ払います」
「自分の店へ?」
「帳簿上は必要です」
「いくらですか」
「銀貨2枚」
「安くないですか?」
「1枚で終わったので」
「店主」
「何です」
「自分の仕事だけ値切っていませんか」
サロメが茶匙を止めた。
「……銀貨4枚」
「まだ安いです」
「弟子に価格交渉されるとは思いませんでした」
「適正価格にしてください」
「分かりました。銀貨6枚」
「根拠は?」
「もう嫌になってきました」
エルネスタは笑った。
サロメも、少しだけ笑った。
*
その日の午後、レオンが書類を持ってきた。
「何ですか?」
「契約損害鑑定士の資格審査について」
エルネスタは手を止めた。
「私の?」
「はい」
「まだ先では」
「実務年数について、王太子殿下の婚約期間中に行っていた公務補助を一部算入できると判断されました」
「誰が?」
「資格審査会です」
「なぜ急に」
「急ではありません。サロメ殿が申請していました」
エルネスタがカウンターを見る。
サロメは知らない顔で茶を飲んでいる。
「店主」
「何です」
「聞いていません」
「今、聞きましたね」
「そういう意味ではありません」
「受けないのですか?」
エルネスタは書類を見る。
筆記審査。
実務記録審査。
最終実技。
「実技は?」
「1件の案件を、監督鑑定士の助言なしで担当します」
「1件」
「はい」
「依頼はこちらで選べますか?」
「いいえ」
「難しいものが来たら?」
「仕事ですから」
レオンが答える。
エルネスタは少し腹が立った。
「法務官殿は、他人事だから簡単におっしゃいますね」
「心配しています」
「そう見えません」
「では、どう見えれば?」
「少しくらい」
言ってから、何を求めているのか自分でも分からなくなった。
「……いいです」
「何がです?」
「何でもありません」
「そうですか」
レオンは本当に引いた。
そこは少しくらい追及してもよいのにと思う。
自分でも面倒なことを考えている。
「受けます」
エルネスタは申請書を手に取った。
「資格審査」
「そうですか」
「応援してください」
「します」
「具体的には?」
「審査に介入しない」
「それは仕事でしょう」
「では、試験の日に朝食を」
レオンが途中で止まった。
「何です?」
「店の近くで、朝食を買ってきます」
「なぜ?」
「食べないでしょう」
「食べます」
「緊張すると忘れる」
「どうして知っているのですか」
「神殿の鑑定の日も、昼まで食べていませんでした」
覚えていたらしい。
「では」
エルネスタは少し声を落とした。
「お願いします」
「はい」
サロメが向こうで、わざとらしく帳簿の頁をめくった。
「店主」
「何も聞いていません」
「そうしてください」
その日の夕方、王城から使者が来た。
資格試験の話ではなかった。
王妃陛下からの、正式な鑑定依頼だった。




