第42話 値段をつけない損失
翌日の空はよく晴れていた。
昨日と同じ男、同じ鞄、同じ手紙だけが、明るい店内ではかえって古く見えた。
翌日の1時ちょうど、マルセルは《未練商会》へ現れた。
昨日と同じ革鞄。
昨日と同じ手紙の束。
その隣に、今日は銀色の小箱を抱えている。
「それは何ですか」
サロメは露骨に嫌そうな顔をした。
「エドガー様からです」
「昨日聞きました」
「こちらは、まだお見せしていません」
「見せなくて結構です」
「私の仕事が終わりません」
「それはお気の毒に」
サロメは茶を飲んだ。
昨日より濃い。
機嫌が悪いときほど茶葉を多くする癖があるらしい。
「店主」
エルネスタが声をかける。
「何です」
「開けるだけ開けては?」
「嫌です」
「即答ですね」
「12年考えても嫌なものは、翌日に急に好きにはなりません」
「でも、中身が分からないままでは」
「分からなくても生活できます」
「昨日は気になって、帳簿を3回同じ頁から読んでいました」
サロメがゆっくりこちらを見る。
「見ていたのですか」
「正面の席でしたので」
「席替えを検討します」
マルセルが小さく咳をした。
「こちらで開けても?」
「勝手にどうぞ」
許可が出た。
マルセルは銀の留め具を外した。
箱の中には、指輪が1つ入っていた。
古い銀の指輪だった。
宝石はない。
内側に、小さく2つの頭文字が刻まれている。
SとE。
エルネスタはサロメを見た。
「婚約指輪ですか」
「そうですね」
「ずいぶん簡素ですね」
「当時は、お互いに金がありませんでしたので」
「サロメ様がお返しになった品です」
マルセルが言った。
「エドガー様は、ずっと保管しておられました」
「捨てればよかったのに」
「そう申し上げました」
「また?」
「はい」
「あなた、かなり失礼ですね」
「長く仕えておりましたので」
小箱の底には、もう1枚紙があった。
新しい紙だった。
エドガーが亡くなる直前に書いたものらしい。
「読みますか」
マルセルが尋ねる。
「読みません」
「では、置いていきます」
「持ち帰ってください」
「明日も来ます」
「……置いていってください」
交渉は終わった。
マルセルは満足そうに頭を下げる。
「それから、一点だけ」
「まだあるのですか」
「エドガー様は、4年前に奥様を亡くされました」
サロメの指が止まった。
「結婚していたのですか」
エルネスタが思わず尋ねる。
「はい。西部で知り合った方と。お子様も2人いらっしゃいます」
サロメは何も言わなかった。
「幸せでした」
マルセルは続けた。
「少なくとも、私にはそう見えました」
「それを、なぜ私に?」
「エドガー様が書き残しておられますので」
「なら、読めば分かります」
「そうですね」
「余計な説明でした」
「失礼しました」
マルセルは頭を下げた。
「では、明日は来なくても?」
「手紙の束を置いていけば」
「ありがとうございます」
昨日まで粘っていた男は、急に仕事を終える気になった。
紺色の束を机へ置く。
「長い間、お預かりして申し訳ありませんでした」
「あなたが謝ることではないでしょう」
「そうですね」
「では」
「はい」
マルセルは帰っていった。
扉の鐘が鳴る。
静かになる。
机の上には、12年前の手紙と、指輪と、昨年まで生きていた男が最後に書いた紙が残った。
「店主」
「今日は仕事が多いですね」
「そうですね」
「手を動かしてください」
「はい」
エルネスタは自分の机へ戻った。
今度は本当に聞かないことにした。
1時間ほどして、紙を開く音がした。
顔を上げないようにした。
もう1度、紙が擦れる。
長い沈黙。
それから、
「エルネスタ」
「はい」
呼ばれたので、顔を上げた。
サロメは手紙を持っていた。
「あなたなら、どう鑑定しますか」
「何をですか」
「これを」
封書を差し出される。
「読んでよいのですか」
「読まなければ鑑定できないでしょう」
「依頼ですか?」
サロメは嫌そうな顔をした。
「そういうことになりますね」
エルネスタは手紙を受け取った。
短かった。
エドガーは、西部へ向かったあとも、サロメが来る可能性をしばらく考えていたという。
けれど、待つとは言ったものの、本当は腹を立てていた。
家族と仕事を選んだサロメに。
自分を選ばなかったことに。
それを言えば彼女を困らせると考え、結局、何も言わずに別れた。
数年後に別の女性と結婚し、子どもが生まれた。
妻を愛していた。
サロメへ戻りたいと思い続けていたわけではない。
ただ、あの婚約が間違いだったことにしたくなかった。
別れて正しかった。
それでも、失ったものには価値があった。
だから、手紙を捨てられなかった。
そんな内容だった。
「……どうです?」
サロメが尋ねる。
エルネスタは手紙を畳んだ。
「困ります」
「なぜ」
「鑑定する相手が亡くなっています」
「請求はしません」
「では、何を」
「それが分からないから聞いています」
サロメが、そんなことを言うのは初めてだった。
エルネスタは銀の指輪を見る。
「未練を量りますか」
「必要ですか?」
「分かりません」
「でしょうね」
「店主」
「何です」
「今日だけ、私に聞く前に答えを持っているふりをするのをやめませんか」
サロメが黙った。
「生意気ですね」
「弟子ですので」
「関係あります?」
「たぶん」
サロメは椅子へ座り直した。
「では、量ってください」
「指輪を?」
「手紙も」
「全部?」
「全部です」
銀秤を出す。
片方に、古い婚約指輪。
もう片方に、サロメが書いた手紙の束と、最後の手紙。
青い炎が上がった。
大きくはない。
小さくもない。
長く触れられてきた品らしい、静かな反応だった。
「何への感情かは」
「分かっています」
サロメは炎を見た。
「たぶん」
「では、損害を」
言いかけて、エルネスタは止まった。
誰が誰へ賠償するのだろう。
サロメは家族を選んだ。
エドガーは西部の仕事を選んだ。
2人とも、相手に何かを強制したわけではない。
約束を破ったとも言い切れない。
「出ませんね」
サロメが言った。
「何がです?」
「請求先」
「はい」
「私にも出ません」
サロメは、少しだけ笑った。
「12年考えても」
「では、鑑定できませんか」
「いいえ」
今度はサロメが首を横に振った。
「請求しない鑑定もあります」
エルネスタは顔を上げる。
「ただし滅多に受けません。金にならないので」
「店主らしいですね」
「褒めています?」
「半分くらい」
サロメは新しい鑑定用紙を1枚出した。
「損害賠償請求なし」
「はい」
「契約違反、双方になし」
「はい」
「婚約期間中の相互の労力と、解消によって失われた将来の選択肢は存在した」
エルネスタが書き留める。
「金額は?」
「つけません」
「価値がないから?」
サロメは銀秤の炎を見た。
「誰かへ払わせるための値段ではないから」
エルネスタは、それも記録した。
*
鑑定書は1枚で終わった。
今までで一番短い。
最後に、
『本件について、金銭的請求を行うべき相手方は認められない』
と書いた。
サロメは署名する。
「それでよいのですか」
「ええ」
「手紙は?」
「保管します」
「指輪も?」
「それも」
「捨てないのですね」
「今日のところは」
「明日は?」
「あなた、最近しつこいですよ」
エルネスタは黙った。
クルミが相談机へ飛び乗り、銀の指輪へ鼻を近づけた。
「駄目ですよ」
サロメが先に取り上げる。
そのまま銀の小箱へしまった。
「店主」
「何です」
「大事なのですね」
「胡桃1袋よりは」
「比較対象が悪いです」
「クルミには分かりやすいでしょう」
クルミが不満そうに鳴いた。
「キュ」
サロメは小箱を引き出しへしまった。
昨日と違い、鍵はかけなかった。




