第41話 読まない手紙
閉店まで、封書は相談机の同じ場所にあった。
窓の外の光だけが移り、誰も触れない紙の上をゆっくり横切っていった。
封書は、相談机の上に残された。
サロメは開けない。
片づけもしない。
そのままカウンターへ戻り、先ほどまで読んでいた帳簿を開いた。
上下が逆だった。
エルネスタはしばらく黙っていた。
「店主」
「聞きません」
「まだ何も」
「顔に書いてあります」
「どのような顔ですか」
「面倒なことを知りたい顔です」
「知りたいです」
「婚約を解消されたのですか」
「私からです」
サロメは帳簿を戻した。
「エドガーは西部の領地へ行くことになりました。私は王都に残った。それだけです」
「一緒に行かなかったのですか」
「行けませんでした」
「なぜ?」
「妹が2人いました。父が亡くなったばかりで、借金もあった。当時の《未練商会》の店主に雇ってもらったところでもありました」
「エドガー様は待つと?」
「言いました」
「では」
「いつまで待てばよいか、私にも分かりませんでした」
サロメは頁をめくる。
今度は、文字を読んでいるようには見えた。
「それに、彼にも仕事があった。西部へ行くのは、望んで得た役目でした」
「どちらも諦めなかった」
「はい」
「セシリア様たちと、似ていますね」
「似ていません」
返事が早かった。
「どこが?」
「私たちは、あの2人ほど話し合いませんでした」
サロメはそこで口を閉じた。
言うつもりのなかったことまで言ったらしい。
「喧嘩を?」
「少し」
「どの程度ですか」
「昔の話です」
「また、それですか」
「便利なので」
エルネスタは相談机の封書を見る。
「中を読まないのですか」
「読みません」
「どうして?」
「今さらです」
「今さらでも、書かれたものは残っています」
「だから困るのです」
サロメの声が少しだけ強くなった。
店内が静かになる。
クルミが窓辺で胡桃を落とした。
硬い実が床を転がり、レオンの靴へぶつかる。
レオンは拾ったが、すぐには箱へ戻さなかった。
「エルネスタ嬢」
「はい」
「今日は、ここまでにしたほうがよいのでは」
「でも」
「本人が、話したくないと言っています」
エルネスタは唇を結んだ。
正しい。
鑑定士は、話したくないことを無理に聞く権利を持たない。
サロメが依頼人ではないからといって、違いはなかった。
「すみません」
エルネスタは頭を下げた。
「聞きすぎました」
「本当に」
エルネスタは自分の机へ戻った。
クラリッサの記録。
リディアの初回監査報告。
セシリアとユリウスの婚約解消合意書。
整理する仕事は、いくらでもある。
それでも、文字が頭へ入ってこなかった。
「1つだけ」
サロメが言った。
エルネスタは顔を上げる。
「はい」
「私は、自分で選びました」
「はい」
「ですから、誰かに補償させることではありません」
「はい」
「鑑定する必要もない」
エルネスタは少し迷った。
聞きすぎたばかりだ。
ここで反論するべきではない。
そう思ったが、口が動いた。
「でも」
「何です」
「自分で選んだなら、なくしたことまで、なかったことになるんですか」
サロメの手が止まった。
「なりません」
答えはすぐに返ってきた。
「では」
「だからといって、値段をつける必要もありません」
「どうしてですか」
「払わせる相手がいないからです」
「鑑定は、請求のためだけではないでしょう」
サロメはエルネスタを見る。
目が合った。
「あなたは」
いつもの乾いた声だった。
ただ、少し疲れていた。
「弟子のくせに、面倒なところばかり覚えますね」
「店主に教わりました」
「教え方を間違えました」
サロメは立ち上がり、相談机へ来た。
封書を取る。
開けるのかと思ったが、そのまま引き出しへ入れ、鍵をかけた。
「今日は読みません」
「明日は?」
「知りません」
「捨てますか?」
「それも、明日決めます」
それ以上は聞かなかった。
サロメはカウンターへ戻る。
クルミが床を走り、鍵をかけた引き出しの前で止まった。
黒い尾を、1度だけ大きく振る。
「クルミ」
サロメが低い声で呼ぶ。
「そこを開けたら、胡桃は1週間ありません」
クルミはすぐに引き下がった。
「通じるのですね」
エルネスタが言う。
「食べ物の話だけは」
「法務官殿より聞き分けがよいかもしれません」
「なぜ、また私と比べるのですか」
レオンは胡桃を箱へ戻した。
それから、サロメの引き出しを1度だけ見た。
「業務上の案件になった場合は、お知らせください」
「なりません」
「そうですか」
「聞かないのですか」
「業務ではないので」
サロメは少し意外そうな顔をした。
「法務官殿にも、遠慮があるのですね」
「あります」
「初めて知りました」
「失礼ですね」
「すみません」
「謝罪が軽い」
「受け取らなくても構いません」
いつもの会話へ戻ったように見えた。
けれど、その日、サロメは1度も薄い茶を淹れなかった。
閉店後も、鍵のかかった引き出しを開けなかった。
翌日の1時、マルセルは約束どおり店へ来た。
手には、紺色の紐で結ばれた手紙の束がある。
そして、その隣には、見覚えのない銀色の小箱を抱えていた。




