第40話 返された手紙
穏やかな午後の店に、旅塵の匂いが入り込んだ。
男の革鞄は使い込まれ、長く運ばれてきたものだけが持つ鈍い艶を帯びていた。
「先月、亡くなりました」
男の言葉が落ちたあと、《未練商会》の中は静かになった。
サロメは、机に置かれた封筒を見ている。
触れようとはしなかった。
手紙の束は、紺色の紐で結ばれていた。
紙の端は茶色く変色し、何度も開かれたらしく折り目が柔らかくなっている。
宛名には、サロメの名があった。
サロメ・ヴァイス。
今と同じ名前だ。
ただ、文字を見たときの彼女は、エルネスタが知っている店主とは少し違って見えた。
「亡くなった理由を伺っても?」
エルネスタが尋ねると、男は帽子を胸の前へ持ち直した。
「流行病です。西部の領地で療養しておりましたが、春を越えられませんでした」
「あなたは?」
「マルセル・グランと申します。ラインハルト家で、長くエドガー様にお仕えしておりました」
「そうですか」
エルネスタはサロメを見る。
サロメはまだ手紙を見ていた。
「それで」
ようやく口を開く。
「なぜ、これを私に?」
「エドガー様の遺言です」
「遺言」
「ご自分が亡くなった場合、こちらの手紙を返すようにと」
「捨ててくださればよかったのに」
マルセルが困ったように眉を下げた。
「そう申し上げました」
「言ったのですか」
「はい」
「本人に?」
「3度ほど」
「余計なことを」
「私もそう思います」
サロメが顔を上げた。
マルセルは真面目な顔をしている。
「ですが、聞いていただけませんでした」
「昔から、人の話を聞かない方でした」
「サロメ様も、そうおっしゃっていたと伺いました」
「私の話はしたのですか」
「時折」
「それ以上は聞きたくありません」
「まだ何も申し上げておりませんが」
「これから言いそうなので」
マルセルは口を閉じた。
エルネスタは2人を見比べる。
初めて会った者同士の会話には聞こえなかった。
マルセルは、昔からサロメのことを知っていたらしい。
「手紙を受け取っていただけますか?」
エルネスタが尋ねる。
「いりません」
サロメは即答した。
「ですが、遺言で」
「受け取る義務はありません」
レオンが窓際の机から言った。
いつから聞いていたのか、開いていた書類を静かに閉じる。
「遺贈品ではなく、元の所有者への返還であれば、受領を拒むことはできます。処分方法は、遺言執行者が改めて判断することになります」
「聞きましたか」
サロメがマルセルを見る。
「持ち帰ってください」
「承知しております」
マルセルは答えた。
「ですから、こちらも持参しました」
革鞄から、もう1通の書面を取り出す。
今度の封筒には、ラインハルト家の印章が押されていた。
「受領を拒否された場合は、この書面をお渡しするようにと」
「ずいぶん準備がよいですね」
「エドガー様でしたので」
「そうでした」
サロメは嫌そうに封筒を見る。
「中身は?」
「存じません。封は、エドガー様ご自身が」
「読みません」
「受け取ってからお決めください」
「受け取らなければ」
「私が、明日も参ります」
サロメが黙った。
「明後日も」
「暇なのですか?」
「遺言執行の一部ですので、仕事です」
「給金が出る?」
「はい」
「では、仕方ありませんね」
サロメは封筒を取った。
紺色の手紙の束には触れない。
「そちらも受け取っていただければ、私の仕事が1度で済みます」
「嫌です」
「そうですか」
「残念そうではありませんね」
「明日も王都へ来る理由ができましたので」
「遊びに来ないでください」
マルセルの口元が、わずかに緩んだ。
そのとき、棚の上にいたクルミが飛び降りた。
相談机へ着地し、手紙の束へ近づく。
「クルミ」
エルネスタが呼ぶ。
クルミは止まらなかった。
紺色の紐を嗅ぎ、黒い尾をゆっくりと左右へ振る。
それから、束の上へ前足を載せた。
「触らせないでください」
サロメが言った。
「店主が受け取らないので、クルミが」
「所有権は移りません」
「リスに法律の説明をしても」
「法務官殿よりは聞くかもしれません」
「なぜ、私と比較するのですか」
レオンが言う。
エルネスタがクルミを抱き上げようとすると、クルミは紐を前歯で引いた。
「こら」
結び目が緩み、一番上の手紙が床へ落ちる。
マルセルが拾うより先に、サロメが動いた。
椅子から立ち、手紙を取る。
その動きは速かった。
「破られたら困るのではありませんか」
エルネスタが言った。
「店内を散らかされるのが嫌なだけです」
「そうですか」
「そうです」
サロメは手紙を束の上へ戻した。
けれど、今度は手を離さなかった。
白い指が、封筒の端に触れている。
「これらは、すべてサロメ様がお書きになったものです」
マルセルが言った。
「見れば分かります」
「エドガー様からの手紙は、残っていないのですか」
エルネスタが尋ねる。
サロメは答えなかった。
マルセルが代わりに口を開く。
「サロメ様がお持ちなのでは」
「捨てました」
「すべて?」
「すべてです」
「燃やしたのですか」
「細かいですね」
「遺品の確認ですので」
「燃やしました」
少し間があった。
「正確には、燃やしたと思います」
「思います?」
「若いころのことです」
「12年前ですね」
マルセルが言った。
「なぜ、あなたが覚えているのですか」
「婚約解消の書類をお預かりしましたから」
エルネスタは手帳へ伸ばしかけた手を止めた。
今は依頼の聞き取りではない。
サロメが気づけば、怒るだろう。
「婚約なさっていたのですか」
それでも、口から出てしまった。
サロメがこちらを見る。
「昔の話です」
「エドガー様と?」
「今、その名前が出ているのですから、ほかの方ではないでしょう」
「どれくらい?」
「エルネスタ」
「はい」
「勤務中です」
「店主もです」
「私は店主なので、昔の婚約について話す業務はありません」
「未練商会なのに?」
サロメが黙った。
レオンが咳をした。
笑ったのかもしれない。
「マルセルさん」
サロメは手紙の束から手を離した。
「今日は、これで」
「お預かりいただけませんか」
「封書は受け取りました」
「束のほうも」
「明日また来たいのでしょう」
「それは、少し」
「では、明日」
マルセルは諦めたように手紙を鞄へ戻した。
「正午ごろに参ります」
「昼食中です」
「では、1時に」
「来なくても構いません」
「参ります」
帽子をかぶり直し、扉へ向かう。
外へ出る前に、マルセルは振り返った。
「サロメ様」
「何です」
「エドガー様は、再鑑定を求めておられたわけではありません」
「分かっています」
「ご自分の選択を、間違いだったともおっしゃっていません」
サロメの顔から、わずかに表情が消えた。
「何を言いたいのですか」
「私には分かりません」
「分からない?」
「本人に聞けと申しておりました」
マルセルの視線が、サロメの手にある封書へ移る。
「書いてあるのだと思います」
「余計なことを言わないでください」
「これも仕事ですので」
扉の鐘が鳴る。
マルセルは帰っていった。




