第44話 王妃は何をしていたのか
王家の馬車が裏通りへ入ると、窓辺の人影が1つずつ引いた。
狭い道には不釣り合いな車輪の音が、店の壁まで低く震わせた。
王妃陛下が《未練商会》へ来たのは、5日後だった。
もちろん、突然ではない。
先触れがあり、護衛の人数まで事前に伝えられた。
それでも、店の前に王家の馬車が止まったとき、エルネスタは手にしていた帳簿を落としかけた。
「緊張しています?」
サロメが尋ねる。
「していません」
「顔に出ています」
「店主が平気すぎるのです」
「国王陛下も来店済みです」
「そうでした」
「あのときは、閉店後でしたね」
「思い出させないでください」
王妃が入ってきた。
50代半ば。
銀の混じった金髪を低くまとめ、濃い青色の衣装を着ている。
式典で見るよりも装飾は少ない。
付き添いは女官長1人だけだった。
「今日は、1人の依頼人として参りました」
王妃は言った。
「陛下とお呼びしても?」
「それは仕方ありません」
少し笑った。
「30年呼ばれてきたものを、今日だけ変えるのも面倒でしょう」
サロメが席を勧める。
「ご依頼は?」
王妃は1冊の本を机へ置いた。
まだ製本途中の、厚い冊子だった。
「王国正史の草稿です」
エルネスタは慎重に表紙を開く。
現国王の治世30周年を記念して作成されている年代記だった。
戦争。
税制改革。
隣国との和平。
飢饉。
王立病院の拡充。
多くの出来事が記されている。
「この中に」
王妃は言った。
「私の名前が、何回出てくると思いますか」
エルネスタは答えられなかった。
「11回です」
「30年間で?」
「そのうち7回は、式典へ出席したという記録です」
王妃は淡々としている。
「残り4回は?」
「結婚。王太子の出産。慈善舞踏会。王太子殿下の婚約破棄後に開かれた王家会議へ出席したこと」
エルネスタの指が止まる。
王妃は彼女を見る。
「あなたのことも書かれています」
「そうですか」
「読みますか?」
「今は結構です」
「そうでしょうね」
王妃は少し笑った。
「私も、息子のところは読み返したくありません」
話を戻す。
「この30年で、私は本当に11回しか王家の仕事をしなかったのでしょうか」
「そうではない、と?」
「私には分かりません」
意外な答えだった。
「分からないのですか」
「長すぎますから」
王妃は女官長を見る。
「自分でも、何を仕事として数えてよいのか分からなくなりました」
女官長が、大きな革鞄を机の横へ置いた。
中から手帳を取り出す。
1冊。
2冊。
3冊。
まだ続く。
「何冊ですか」
「41冊ございます」
女官長が答えた。
「30年分です」
エルネスタは、少し懐かしい気持ちになった。
「手帳をつけていらしたのですね」
「あなたの7冊には負けません」
王妃が言う。
「数では勝っています」
「競うものではありません」
「そうですね」
王妃の目元が少し緩む。
「私は離縁したいわけではありません」
「はい」
「国王へ金貨を請求したいわけでも」
「はい」
「ただ」
王妃は正史の草稿へ手を置いた。
「私がいなくなったあと、私が何もしていなかったことにされるのが嫌なのです」
エルネスタは手帳を開いた。
聞いたことのある言葉だった。
クラリッサ。
リディア。
そして、かつての自分。
「分かりました」
エルネスタは答えた。
「何を記録するか、まず分けます」
「何を?」
「王妃として当然とされてきたこと。正式な公務。非公式な補助。誰かの名で記録された仕事」
「ええ」
「ただし、陛下が関わったことを、すべて陛下の功績にはできません」
「もちろんです」
「証拠がないものも」
「外してください」
「記憶と記録が違った場合は」
「記録を優先してください」
答えが早い。
エルネスタは、少し安心した。
「では、始めましょう」
「よろしくお願いします」
「最初は」
エルネスタは41冊の手帳を見た。
「昨日1日から、とはいきませんね」
「30年前からお願いできますか」
「長くなります」
「30年ですもの」
以前、クラリッサの義母が言った言葉を思い出す。
短く済むほうがおかしい。
「分かりました」
エルネスタは新しい手帳を開いた。
「ご成婚の翌日から伺います」




