第38話 愛していると記録してください
出航を控えた王都には、雨の多い日が続いていた。
濡れた窓の向こうで船の予定だけが確実に近づき、2人の時間を残り日数へ変えていった。
婚約解消の正式な手続きは、船の出航1か月前に行われた。
場所は《未練商会》。
両家の代表と弁護士がそろい、レオンも法務上の確認のため同席した。
サロメは、人数が多すぎると朝から不機嫌だった。
「椅子が足りません」
「奥から出します」
「出したら、しまうのは誰です?」
「私です」
「なら構いません」
最初から、エルネスタへしまわせるつもりだったらしい。
ローデン男爵は、以前より静かだった。
セシリアへ何かを言おうとして、やめる。
代わりに、何度も彼女の旅装を確認していた。
フェルナー家からは、ユリウスの母親が来ている。
婚約解消へ反対していたというが、今日は何も責めなかった。
「本当に、よいのね」
母親がユリウスへ尋ねる。
「よくはない」
「では」
「でも、決めた」
それ以上は言わせない声だった。
合意書の内容は、簡潔だった。
婚約は、双方の合意により解消する。
慰謝料は、どちらからも請求しない。
婚約準備費用は、両家で折半する。
家同士の贈答品は返却。
個人的な贈答品については、作成した一覧に従い、それぞれが保有する。
「こちらに、問題はありません」
レオンが書面を閉じた。
「ただ、1項だけ確認します」
「何ですか?」
セシリアが尋ねる。
「『今後、互いの人生へ不当に干渉しない』」
「はい」
「不当に、の範囲が曖昧です」
「削ったほうが?」
「具体化するか、契約上不要なら削除してください」
ユリウスが考える。
「調査を辞めろと言わない」
「工房を売れとも言わない」
セシリアが続ける。
「結婚しろと言わない」
「結婚するなとも言わない」
「帰ってこいと言わない」
ユリウスの声が少し詰まった。
「帰ってくるなとも言わない」
セシリアが答える。
2人は互いを見た。
「その内容を、契約書へ入れますか?」
レオンが尋ねる。
「入れません」
セシリアが言った。
「多すぎます」
「では、該当条項を削除します」
レオンは迷いなく線を引いた。
「よろしいですか?」
「はい」
「はい」
署名欄へ、2人の名前が並ぶ。
セシリア・ローデン。
ユリウス・フェルナー。
インクが乾くまで、誰も話さなかった。
銀秤を使う必要はない。
合意書に争点はなく、財産上の損害も整理されている。
それでも、セシリアが銀秤を見た。
「最後に、もう1度量っていただけますか?」
「何を?」
「私たちの未練を」
ユリウスが彼女を見る。
「必要か?」
「確認したいのです」
「減っていたら?」
「少し傷つきます」
「増えていたら?」
「困ります」
「なら、見なくていいだろう」
「ユリウスは?」
「見たい」
「同じではありませんか」
「そうだな」
エルネスタは、サロメを見た。
サロメは肩をすくめる。
「依頼人が希望するなら」
「追加料金は?」
「本日の契約料に含まれています」
「珍しいですね」
「人数が多すぎて、計算が面倒です」
エルネスタは銀秤を2人の前へ置いた。
婚約契約書は、今日で効力を失う。
代わりに、婚約解消合意書を皿へ載せた。
青緑色の硝子瓶。
押し花。
ユリウスの焦げた手袋。
セシリアの植物図鑑。
2人が残すと決めた物を、それぞれ1つずつ。
青い炎が上がった。
前回と同じくらい、大きかった。
「減っていませんね」
セシリアが言う。
「増えているようにも見える」
ユリウスが答える。
「炎の大きさだけで、前回との厳密な比較はできません」
エルネスタは言った。
「ただ、強い感情が残っていることは確かです」
「この結果でも、婚約を解消しますか?」
「はい」
2人の返事は重なった。
以前より、少しだけ迷いがなかった。
「では、鑑定書には」
エルネスタはペンを取った。
「双方に、婚約関係の継続を妨げる契約上の非は認められない、と記載します」
「愛していたことも、記録できますか?」
セシリアが尋ねた。
「契約損害鑑定書に?」
「はい」
「銀秤だけで愛情と断定はできません」
「私たちが証言します」
ユリウスが言った。
「互いに愛情があると」
「では、鑑定所の判断ではなく、お2人の共同声明として残す方法があります」
レオンが口を開いた。
「法的な拘束力は持たせず、婚約解消の事情を記録する」
「何と書けば?」
「ご自分たちの言葉で」
2人は困ったように顔を見合わせた。
「今ここで?」
ユリウスが言う。
「後日でも構いません」
「後日にすると、長くなる」
「あなたが短くすればよいでしょう」
「セシリアが直す」
「ユリウスの文章は説明が足りません」
「君の文章は説明が多い」
「では、エルネスタ様が」
「私が書くのですか?」
「鑑定士でしょう」
「声明文の代筆は、別料金です」
サロメが言った。
「店主」
「無料で働かないように教えました」
「そうでした」
結局、2人はその場で文章を作ることにした。
ユリウスが1文を書く。
セシリアが3行加える。
ユリウスが2行削る。
セシリアが1行戻す。
その作業を4度繰り返した。
「まだですか?」
サロメが尋ねる。
「店主」
「閉店時間が近いので」
「あと少しです」
「先ほども聞きました」
最終的に残った文章は、驚くほど短かった。
『私たちは、互いを愛していたことを否定しない。それでも、望む生活が異なるため、双方の意思により婚約を解消する。どちらか一方が愛情を欠いた結果ではない』
「これでよいですか?」
エルネスタが確認する。
セシリアは少し考えた。
「愛していた、ではなく」
「何です?」
「愛している、では駄目ですか?」
室内が静かになった。
ユリウスがセシリアを見る。
「現在形にするのか」
「嘘ではないでしょう」
「そうだけど」
「嫌ですか?」
「嫌ではない」
「なら」
ユリウスは文書を取り、言葉を直した。
『私たちは、互いを愛していることを否定しない。それでも、望む生活が異なるため、双方の意思により婚約を解消する。どちらか一方が愛情を欠いた結果ではない』
「これで」
「はい」
2人が署名する。
今度は、インクが乾くまで、2人は文章を見つめていた。




