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婚約破棄鑑定士は、恋を値切らない  作者: くるみ
第3章 愛していても、結婚しない2人

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第37話 相手の場所

工房の炉は、外の寒さを忘れるほど熱かった。

溶けた硝子が赤く光り、職人たちの影を壁へ長く揺らしていた。


それから2週間後、エルネスタはフェルナー工房を訪れた。

婚約解消の鑑定に、工房を見る必要はない。

最初はそう考えていた。

けれど、ユリウスが王都を離れられないという理由を、言葉だけで記録することにも迷いがあった。


「ここまで確認する必要がありますか?」


レオンが隣で言った。


「法務官殿も来たのですか?」

「将来の取引契約に関する確認があります」

「硝子器具の?」

「はい」

「私たち、別々に来てもよかったのでは?」

「同じ場所へ行くのに?」

「そうですが」

「問題がありますか?」

「ありません」

「では」


レオンは工房の扉を開けた。

なぜか、エルネスタが案内されているような形になった。


中は暑かった。

奥の炉では、橙色の火が燃えている。

職人たちが長い管の先へ溶けた硝子を巻き取り、息を吹き込んでいた。

熱のため、空気そのものが揺れて見える。


「近づきすぎないでください」


ユリウスが作業着姿で出てきた。


「床に欠片が落ちています」

「分かりました」

「その靴では滑ります」

「では、どこを歩けば?」

「こちらへ」


ユリウスはエルネスタたちを、壁際に沿って案内した。

普段の落ち着いた服装とは違い、袖をまくり、腕には火傷の跡がある。


「ユリウス様も作業なさるのですね」

「職人ですから」

「経営だけでは?」

「父が倒れてからは、両方です」


工房には20人ほどの職人がいた。

年配の者。

まだ少年に見える者。

硝子へ模様を刻む女性。

仕上がった器具を1つずつ検査する者。


「医療用の器具は、普通の硝子と違うのですか?」

「厚みを均一にします。急な温度変化で割れないように」


ユリウスは棚から細い管を1本取った。


「ここに気泡があれば、加熱したときに破裂することがあります」

「青緑色の瓶には、気泡がありましたね」

「あれは最初の作品です」

「今なら?」

「作りません」

「作れない?」

「作らない」


少し不機嫌になった。

エルネスタは、それ以上追及しなかった。

工房の奥では、若い職人が何度も失敗していた。

硝子を均一に膨らませられず、形が歪む。


「もう1度」


ユリウスが言う。


「火から出すのが早い。焦って吹くな」

「すみません」

「謝る前に、温度を見ろ」


厳しい口調だった。

けれど、失敗した硝子を取り上げて、自分の手でどこが悪いかを示している。


「弟君ですか?」


エルネスタが尋ねる。


「はい」


15歳の弟は、兄を見ながら作業をやり直した。


「5年後には、工房を任せられますか?」

「分かりません」

「ユリウス様が育てれば」

「僕が父と同じ病気になったら、来年にも継がせなければならない」


エルネスタは彼の横顔を見る。


「お父様のご病気は?」

「肺を悪くしました」

「硝子工房の仕事が原因ですか?」

「一部は」

「では、ユリウス様も」

「対策はしています」


換気口を増やし、細かな粉を吸わないよう布を支給しているという。

費用はかかる。

それでも、父親と同じ働き方を繰り返さないよう変えている。


「工房を守るというのは」


エルネスタが言った。


「建物を残すだけではないのですね」

「ええ」


ユリウスは職人たちを見た。


「働いている人がいますから」

「セシリア様は、ここへ?」

「何度も来ています」

「作業も?」

「以前は」

「以前?」

「植物の汁を保存する瓶を、自分で作りたいと言って」

「作れたのですか?」

「20個割りました」


エルネスタは炉を見た。


「危険ですね」

「僕も止めました」

「聞かなかった?」

「聞く人に見えますか?」

「あまり」


ユリウスが笑った。


「最後に1つだけ、歪んだ瓶ができました」

「今は?」

「南方へ持っていくそうです」

「割れそうですね」

「そう言いました」

「何と?」

「割れたら、また作ると」


エルネスタは何も言わなかった。

別れる2人の会話は、未来の話を含んでいる。

それが再会の約束なのか。

ただの仕事の約束なのか。

本人たちにも、まだ分からないのかもしれない。



翌日、今度は王立博物院を訪れた。

ユリウスも一緒だった。


「私は工房を見たので、ユリウス様にも見ていただこうと思いまして」


エルネスタが説明すると、ユリウスは困った顔をした。


「何を見ればいいんです?」

「セシリア様が離れられないものを」


王立博物院の植物研究室には、見たことのない葉や種が並んでいた。

天井から乾燥させた蔓が吊るされ、棚には標本がぎっしりと収められている。

セシリアは、工房へ来たときのユリウスと同じように、迷いなく歩いた。


「これは北部湿原で見つかった植物です」


標本箱を開く。


「根に鎮痛作用があります。ただ、乾燥させると効果が弱くなるので、現地で加工する必要があります」

「南方で調べるのも、薬になる植物ですか?」


ユリウスが尋ねる。


「すべてではありません」

「薬にならないものも?」

「あります」

「では、何のために」


セシリアの眉が少し下がる。


「知らないものを、知るためです」

「役に立たなくても?」

「今は、役に立つか分からないだけです」

「でも、5年も」


ユリウスはそこで口を閉じた。

セシリアも、何も言わなかった。

エルネスタは2人の間へ口を挟まなかった。

少しして、ユリウスが標本箱を覗き込む。


「この葉は?」

「水を弾きます」

「防水布に使える?」

「現地では、屋根に使うそうです」

「樹脂が取れるなら、器具の栓にも」

「硬化するかは、まだ」

「試料は?」

「船で採取します」

「保存する瓶が要るな」

「はい」


2人の会話が、仕事の話へ変わっていく。

工房の職人と、植物の研究者。

婚約者でなくても、話せることがある。


「こちらが、南方調査団の荷物です」


研究室の奥には、木箱が積まれていた。

採集道具。防水布。

薬。食料。地図。

硝子器具を収めるための箱は、まだ空だった。


「この仕切りでは、船で割れます」


ユリウスが言った。


「博物院の担当者が作りました」

「硝子瓶の間に、もっと柔らかい物を入れたほうがいい」

「藁では?」

「湿気を吸う」

「では、何が?」

「木毛を油紙で包む」

「重くなります」

「瓶が割れるよりは」


ユリウスは箱の寸法を測り始めた。


「持ち帰って、見積書を出します」

「契約していません」


セシリアが言う。


「だから、先に見積書だ」

「出航まで2か月です」

「間に合わせる」

「工房は忙しいのでは?」

「これは仕事だ」

「私のためではなく?」

「調査団のためだ」


セシリアは少し黙った。


「分かりました」


それ以上は聞かなかった。

帰り際、ユリウスは研究室の扉の前で振り返った。


「楽しそうだったな」


セシリアが足を止める。


「はい」

「工房にいるときより」

「比べるものではありません」

「分かってる」


ユリウスは標本が並ぶ部屋を見た。


「でも、見てよかった」

「何を?」

「君が行きたい場所を」


セシリアの目に涙が浮かんだ。


「これで、止めないで済みますか?」

「止めたい気持ちは、変わらない」

「そうですか」

「でも」


ユリウスは言葉を探した。


「止めていいとは、思わなくなった」


セシリアは泣きながら笑った。


「十分です」


エルネスタは、2人から少し離れて歩いた。

レオンも隣に並ぶ。


「この見学は、鑑定に必要でしたか?」


レオンが小声で尋ねる。


「分かりません」

「分からない?」

「でも、2人には必要だったと思います」

「あなたが決めたのですか?」

「提案しました」

「結果が悪ければ?」

「そのときは」


エルネスタは少し考えた。


「謝ります」

「謝って済まないこともあります」

「では、どうすればよかったのですか」

「分かりません」

「法務官殿も?」

「結婚相談は専門外です」

「知っています」

「ただ」


レオンは、少し前を歩く2人を見た。


「相手の仕事を見ずに、諦めろと言うよりはよかったのでしょう」

「そう思いますか?」

「たぶん」

「はっきりしませんね」

「証拠がないので」


エルネスタは少し笑った。


「その言い方は、便利ですね」

「あなたも使っていいですよ」

「考えておきます」

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