第32話 どちらが諦めるべきか
窓の外を雲が流れ、店内の明るさが何度も変わった。
話すたびに2人の希望は鮮明になるのに、その先の暮らしだけは少しも重ならなかった。
「いつ頃でしょう」
「半年前、父が倒れたときです」
ユリウスは息を吐いた。
「南方の募集へ応募するのを、1年待てないかと聞きました」
「私は待ちました」
「そうです」
「今回が2度目の募集です」
エルネスタは記録した。
「今回も待ってほしいと?」
「言えません」
「言いたくないのですか?」
「言ったら、僕はたぶん」
ユリウスは少し笑った。
「5年後も同じことを言います」
セシリアが顔を伏せた。
「工房が安定するまで。弟が一人前になるまで。母が落ち着くまで。その次は、子どもが生まれるまで」
「そんな先まで」
「言わないと思いますか?」
セシリアは返事をしなかった。
「僕は、言うと思う」
ユリウスの声は静かだった。
「だから、今、婚約を解消したほうがいい」
「私のために?」
「自分のためでもある」
「どちらですか?」
「両方だよ」
セシリアの目から、涙が1滴落ちた。
「それが嫌なのです」
「何が」
「きれいに言おうとするところが」
ユリウスが黙る。
「私のためだから別れると言われたら、私は感謝しなければいけないでしょう」
「そんなことは」
「では、自分が嫌だと言ってください」
セシリアは握っていた手を離した。
「南方へ行く妻を待つのが嫌だと。帰ってくるか分からない人と結婚したくないと」
「セシリア」
「私の夢を応援できない自分が悪いように見えるから、私のためだと言うのでしょう」
「違う」
「何が違うのですか」
ユリウスの手が、机の上に残った。
先ほどまでセシリアが握っていた場所を、指先で触れる。
「応援してる」
「では」
「応援しているけど、嫌なんだ」
声が、少しだけかすれた。
「行ってほしい。でも、行ってほしくない。帰ってきてほしい。でも、帰ってこいと言いたくない。そんなふうに思いながら5年待つのは、たぶん無理だ」
セシリアは何も言わなかった。
「君が悪いとは思っていない」
「はい」
「僕も悪くないと思いたい」
「はい」
「でも、2人とも悪くないなら、別れなくてもいい気がして」
「私もです」
また、会話が止まった。
悪い者がいない。
だから、責任を向ける場所がない。
相手を責められない代わりに、自分の望みを責め始める。
「こちらへ来た理由を伺っても?」
エルネスタが尋ねた。
セシリアは涙を拭き、鞄から1枚の紙を取り出した。
「婚約解消の合意書です」
「すでに作成を?」
「両家の弁護士が」
エルネスタが目を通す。
慰謝料は双方なし。
婚約時に贈られた品は返却。
結婚準備に使った費用は、両家で折半。
一般的な内容だった。
「何か問題がありますか?」
「書面にはありません」
ユリウスが答えた。
「では、何を鑑定してほしいのでしょう」
2人は互いを見た。
セシリアが先に口を開く。
「どちらが、諦めるべきかを」
エルネスタは、聞き間違えたかと思った。
「諦める?」
「銀秤なら、分かるのではありませんか」
ユリウスが言った。
「工房と調査。どちらに高い価値があるのか」
「価値を比べるのですか?」
「はい」
「高いほうを残して、低いほうを諦める?」
2人はうなずいた。
「そうすれば、結婚できます」
セシリアが言った。
エルネスタはしばらく返事をしなかった。
カウンターの奥では、サロメが何も言わず帳簿を読んでいる。
レオンは窓際の机で報告書を作成していたが、手を止めていた。
「当店の銀秤では」
エルネスタは慎重に言った。
「お2人の人生のどちらが重要かは決められません」
「ですが、価値を量るのでしょう?」
「証拠に基づく損害や労働を量る補助をします」
「夢のために使った時間も?」
「場合によっては、記録できます」
「なら」
「高いほうが、諦めなくてよいとは限りません」
セシリアが眉を寄せた。
「どうしてですか?」
「金額が高いことと、ご本人が選びたいことは別だからです」
「でも、何か基準がないと決められません」
「お2人は、もう決めているのではありませんか?」
2人の表情が固くなる。
エルネスタは少し迷った。
「セシリア様は南方へ行く。ユリウス様は工房に残る」
「それでは、別れるしか」
「はい」
「だから、どちらかを」
「どうして、必ずどちらかが諦めなければならないのですか?」
セシリアが息を呑む。
「結婚するためです」
「結婚しないという選択は?」
「それを決めるために来たのです」
「いいえ」
エルネスタは首を横に振った。
「結婚しないために、どちらかの夢の価値を低くしてほしいのではありませんか?」
言ってから、強すぎたと気づいた。
セシリアの顔が青ざめる。
ユリウスが彼女をかばうように身体を動かした。
「責めないでください」
「すみません」
エルネスタはすぐに頭を下げた。
「責めるつもりはありませんでした」
「では、どういう意味ですか」
ユリウスの声は低かった。
「別れる理由が欲しいのではないかと思いました」
「理由なら、あります」
「はい」
「暮らしたい場所が違う」
「はい」
「望む結婚生活も違う」
「はい」
「それでは足りないのですか?」
エルネスタは聞いた。
ユリウスは答えなかった。
セシリアが両手を握る。
「愛しているのに別れるなんて、間違っていると言われました」
「どなたに?」
「両親にも、友人にも」
「愛しているなら譲れるはずだ、と」
ユリウスが言った。
「どちらも譲れないなら、その程度の愛情だと」
エルネスタは銀秤へ目を向けた。
「量ってみますか?」
「はい」
2人は同時に答えた。
「ただし、先ほどのご希望には答えられません」
「分かりました」
分かってはいない顔だった。
それでも、エルネスタは銀秤を相談机の中央へ置いた。
「婚約契約書を」
セシリアが鞄から取り出す。
紙の端は何度も開いたため、少し柔らかくなっていた。
「お互いから受け取った手紙や品はありますか?」
「今日は、これだけです」
ユリウスが、小さな硝子瓶を置いた。
青緑色の硝子で作られた細い瓶だった。




