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婚約破棄鑑定士は、恋を値切らない  作者: くるみ
第3章 愛していても、結婚しない2人

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第31話 未練が多すぎます

春先の風が扉を押し、相談机の紙をかすかに揺らした。

入ってきた2人は互いの手を握り、別れを相談する客には見えなかった。


「今も、愛しています」


男性が言った。

隣に座る女性も、手を握ったままうなずく。


「私もです」


《未練商会》へ婚約解消の相談に来る客としては、少し珍しかった。

怒鳴り合ってはいない。

泣いてもいない。

どちらかが別の相手を連れてきたわけでもない。

2人とも、互いの顔をよく見ている。

それなのに、握った手には、離れないためというより、離す時機を探しているような力が入っていた。


「お名前を伺います」


エルネスタが手帳を開いた。


「セシリア・ローデンです」


女性が答える。

25歳。

淡い茶色の髪を短くまとめ、灰色の外套を着ている。

外套の袖には、乾いた土が少し付いていた。


「ユリウス・フェルナーです」


男性は27歳。

栗色の髪に、日に焼けた肌。

仕立てのよい服を着ているが、右手には細かな傷が多い。


「ご婚約の期間は?」

「4年です」

「解消を決めたのは?」


2人は、同時に口を開いた。


「彼です」

「彼女です」


それから互いを見た。


「セシリアが先だろう」

「でも、言葉にしたのはユリウスです」

「君が、もう決めた顔をしていたから」

「そんな顔はしていません」

「していたよ」

「いつですか?」

「先月、王立博物院から手紙が届いた日」


セシリアが口を閉じる。

ユリウスも、それ以上は言わなかった。

喧嘩ではない。

ただ、長く知っている者同士の会話だった。


「1人ずつ伺いましょう」


エルネスタは新しい頁を開いた。


「まず、セシリア様。今後、どこで何をなさりたいのですか?」

「南方諸島へ行きます」

「旅行ですか?」

「調査です。王立博物院の植物調査団に、博物学者として採用されました」


エルネスタはペンを止めた。


「おめでとうございます」

「ありがとうございます」


セシリアは微笑んだ。

ほんの一瞬だったが、この店へ入ってから初めて、迷いのない表情になった。


「調査期間は?」

「最初の契約は5年です」

「最初の?」

「成果が認められれば、延長されます。南方には、まだ分類されていない植物が多くて」


声が少し速くなる。


「薬効があると考えられている樹皮もありますし、雨季にしか咲かない花もあります。現地の方々は利用法をご存じなのに、王国の記録にはほとんど残っていません」


セシリアは、途中で自分が話しすぎたと気づいたらしい。


「すみません」

「いえ。続けても構いません」

「長くなります」

「手帳は新しいものを用意しています」


エルネスタが見せると、セシリアは少し笑った。


「では、あとで」

「今ではないのですね」

「婚約解消の話が終わってからにします」


エルネスタはユリウスへ向き直った。


「ユリウス様は?」

「フェルナー工房を継ぎます」

「何の工房でしょう」

「医療用の硝子器具です」


王都の治療院や薬師が使う薬瓶、蒸留器、細い管などを作っているという。


「父が倒れてから、僕が職人たちをまとめています。弟はまだ15歳です。母も、工房の経営までは」

「南方へ同行することは?」

「できません」


答えは早かった。


「工房を売却する、あるいは管理をほかの方へ任せることは?」

「考えました」

「結果は?」

「無理でした」


ユリウスは傷のある右手を見た。


「うちの工房は、王都の治療院と契約しています。僕がいなくても、しばらくは動くでしょう。でも、5年は無理です」

「弟君が成人するまで待つことは?」

「調査団の船は、3か月後に出ます」


セシリアが答えた。


「次の募集がいつになるかは分かりません」

「待ってほしいと、ユリウス様は?」

「言っていません」

「なぜですか?」

「言えば、待つからです」


ユリウスはセシリアを見なかった。


「この人は、そういう人です」

「待つとは限りません」

「待つよ」

「どうして決めるのですか」

「分かるから」

「では、私が行くことも分かってください」

「分かっている」


2人の声が、少しだけ強くなる。

それでも、握った手は離れなかった。

エルネスタは、どこで口を挟むべきか迷った。

依頼人が互いに話せるなら、鑑定士が止める必要はない。

ただし、このままでは同じところを回りそうだった。


「確認します」


エルネスタは言った。


「セシリア様は調査団へ参加する。ユリウス様は王都に残り、工房を継ぐ」

「はい」


2人が答える。


「遠距離で婚約を続けることは?」

「最初は、そのつもりでした」


セシリアが言った。


「5年後に結婚しようと」

「でも、5年では戻らないかもしれない」


ユリウスが続ける。


「帰国しても、また別の調査へ行きたいだろう」

「その可能性はあります」

「僕は、王都を離れられない」

「はい」

「結婚して、別々の場所で暮らす方法もあります」


エルネスタが言うと、2人は黙った。


「検討なさいましたか?」

「しました」


今度はユリウスが答えた。


「セシリアは南方で研究し、僕は王都で工房を守る。年に1度、会えるかどうか」

「それを望まない?」

「僕は」


ユリウスの声が止まる。


「……一緒に暮らしたいです」


簡単な言葉だった。

言った本人は、少し気まずそうに顔を伏せた。


「朝、同じ家で起きて、夕食を一緒に食べたい。子どもも、できれば」


セシリアの指が、ユリウスの手を握り直す。


「私は、南方へ行きたいです」

「知っている」

「1度だけではなく」

「知ってる」

「結婚してからも、調査へ行くと思います」

「分かってるよ」

「分かっていない顔をしています」

「どんな顔だ、それは」

「今の顔です」


ユリウスは困ったように眉を寄せた。


「では、どういう顔をすればいいんだ」

「知りません」


セシリアの目に、少しだけ涙が浮かんだ。

怒ってはいない。

困っているのだろう。

互いの望みを分かっている。

分かっているのに、重ならない。


「ご両家は、婚約解消に同意していますか?」


エルネスタが尋ねた。


「反対されています」


セシリアが袖口で目元を押さえた。


「私の両親は、結婚してから調査へ行けばよいと」

「ユリウス様のご家族は?」

「セシリアが調査団を断ればよいと」

「断るように頼んだことは?」

「ないです」


ユリウスは即座に答えた。


「1度も?」

「……1度だけ」


セシリアが横から言った。

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