第30話 花を選ぶ日
花市場には朝露と土の匂いが満ちていた。
神殿の白い廊下にはなかった色が、狭い通路の両側から押し寄せてくる。
3か月後、リディアは王都の花市場にいた。
「多すぎます」
色とりどりの花が並ぶ店先で、彼女は困り果てていた。
「花市場ですから」
エルネスタが答える。
「白い花だけではないのですね」
「神殿では、白い花を?」
「祭壇には、いつも白百合です」
「お母様がお好きだった花は?」
「分かりません」
リディアは、赤い花へ手を伸ばしかけて止めた。
次に、黄色い花を見る。
青い小花の前でも足を止めた。
「どれを選べばよいでしょう」
「私に聞くのですか?」
「エルネスタ様は、何でも記録して決めてくださるので」
「花は鑑定できません」
「そうなのですか」
「できなくはありませんが、今日はしません」
リディアは少し笑った。
治療休暇の間に、手の傷はかなり塞がっていた。
赤い亀裂は薄くなり、包帯も必要なくなっている。
指先の感覚は、一部戻っていない。
それでも、以前のように杯を落とすことはなくなった。
「お母様へ、何を伝えたいですか」
エルネスタが尋ねる。
リディアは店先へ並ぶ色を眺めた。
「えっと、自分で選んだのだと伝えたいです」
「では、好きな色を」
「好きな色」
「決めたことはありませんか?」
「聖女の衣は白ですから」
「今、着ている服は青ですね」
リディアは自分の袖を見た。
休暇中に初めて、自分の手当で買った服だった。
「この色は、好きです」
「では、青い花にしますか?」
「それでは、服と同じだから選んだだけになりませんか」
「駄目ですか?」
「分かりません」
「では、青と黄色を半分ずつ」
「2つ選んでも?」
「花屋に止められなければ」
店主の女性が笑う。
「何色でもどうぞ」
リディアは青い小花と、丸い黄色の花を選んだ。
包んでもらう間、財布から金貨を取り出す。
店主が釣り銭を返した。
リディアは銀貨を1枚ずつ数えた。
「自分で買えました」
「はい」
「思っていたより、普通ですね」
「花を買うだけですから」
「10年かかりました」
リディアは花束を抱えた。
「それでも、普通なのですね」
「普通でよいと思います」
エルネスタは言った。
その日は2人で、王都郊外にある墓地へ向かった。
リディアは母親の墓の前へ花を供え、長い間、何も話さなかった。
エルネスタも離れた場所で待った。
帰り道、リディアは泣いていた。
それでも、足取りは軽かった。
*
リディアが神殿へ戻ったのは、その翌週だった。
以前と同じ聖女の白衣を着ている。
ただし、袖口には青い刺繍が入っていた。
自分で選んだものらしい。
最初の勤務は午前9時から午後5時まで。
治癒を担当した患者は8人。
奇跡を使ったのは2回だった。
残りの6人は、医師と治癒師の処置を受けた。
「本当に、これだけでよいのでしょうか」
勤務を終えたリディアが尋ねる。
「よいのです」
マティアスは患者台帳を閉じた。
「今日、亡くなった方はいません」
「明日は?」
「明日の担当が考えます」
「私ではなく?」
「聖女様も担当の1人です」
彼は少し言い直した。
「1人だけ、ではありません」
リディアは、その言葉を何度か心の中で繰り返すように黙った。
「では、帰ります」
「はい」
「鐘が鳴っても?」
「緊急時以外は、呼びません」
「緊急かどうかは?」
「医師と治癒師が判断します」
「分かりました」
リディアは治癒院の扉へ向かった。
「あの」
マティアスが呼び止める。
「何でしょう」
「以前、聖痕の痛みについて」
そこで言葉に詰まる。
「謝罪なら、もう必要ありません」
マティアスはうなずいた。
「明日は休みですね」
「はい」
「何をなさるのですか?」
リディアは少し考えた。
「まだ、決めていません」
以前なら、不安そうに答えただろう。
今は、少し嬉しそうだった。
*
試行制度が始まってしばらくすると、治癒院の待ち時間は長くなった。
不満を訴える患者もいた。
聖女を出せと怒鳴る寄付者もいた。
けれど、治癒師が診療に関わる機会は増え、薬で治せる患者へ奇跡を使うことは減った。
夜間の呼び出しも、以前より明らかに少なくなった。
聖女が倒れて治癒院そのものが止まる危険も、低くなっている。
制度が成功したかどうかを決めるには、まだ早い。
ほかの神殿が同じ仕組みを受け入れるかも分からない。
それでも、少なくとも王都では、聖女の休日が予定表に書かれるようになった。
消してはいけない予定として。
*
「初回監査報告書です」
レオンが《未練商会》のカウンターへ、厚い書類を置いた。
試行開始後の最初の監査結果だった。
「終わったのですか?」
「1度目の監査は」
「1年後に、また?」
「正式な見直しがあります。それまでにも定期確認はします」
「大変ですね」
「あなたも立ち会うことになるかもしれません」
「決定事項ですか?」
「予定を確認しておいてください」
「1年後の?」
「近くなってからで結構です」
「最初から、そうしてください」
エルネスタは報告書を開いた。
レオンは帰らず、カウンターの前に立っている。
「まだ何か?」
「1つ」
「はい」
「最初に会った日のことですが」
エルネスタは頁をめくる手を止めた。
「どの日ですか」
「馬車で、王太子殿下への私怨を、ほかの案件へ持ち込んでいないと証明できるかと」
「忘れていません」
「そうでしょうね」
「謝罪なら、続けてください」
レオンは眼鏡の位置を直した。
「疑うこと自体は、監査として必要でした」
「はい」
「ただ」
そこで止まる。
エルネスタは待った。
「言い方がよくなかった」
「よくなかった?」
「かなり」
「はい」
「……すみませんでした」
エルネスタは少し驚いた。
「法務官殿も、謝れるのですね」
「どういう意味ですか」
「そのままです」
「受け取っていただけますか」
「鑑定額は変わりません」
「何の?」
「今後、失礼なことを言われた場合の」
レオンが黙った。
「冗談です」
「分かりにくいですね」
「法務官殿に言われたくありません」
棚の上から、クルミが飛び降りた。
レオンが机へ置いた銀の留め具をくわえる。
「あ」
「クルミ」
呼び止める間もなく、クルミは書棚の裏へ逃げ込んだ。
「またですか」
「光る物を出しておくからです」
「報告書を留めていたんです」
「返してもらいます」
「お願いします」
「乾燥リンゴ代は?」
「私が払います」
「では、交渉成立です」
レオンは、わずかに笑った。
そのとき、店の扉が開いた。
若い男女が入ってくる。
2人は並んで立ち、しっかりと手を握っていた。
「こちらで、婚約解消の相談ができると伺いました」
男性が言った。
「はい」
エルネスタは相談机を示した。
女性は隣の男性を見てから、少し困ったように笑った。
「私たち、互いに嫌いになったわけではないのです」
「むしろ」
男性が続ける。
「今も、愛しています」
エルネスタは新しい手帳を開いた。
「それでも、婚約を解消したい?」
2人は、手を握ったままうなずいた。
《未練商会》を訪れる者が、皆、裏切られているとは限らない。
愛しているから別れない者もいる。
愛していても、別れる者もいる。
「分かりました」
エルネスタはペンを取った。
「まず、お2人がそれぞれ、今後どこで何をしたいのかをお聞かせください」
今度の銀秤には、きっと大きな青い炎が灯る。
だからといって、答えまで決まるわけではなかった。




