第29話 聖女の新しい契約
契約書の白い紙には、古い祈祷文ほどの威厳はなかった。
けれど、読み直せる文字と空いた余白が、リディアには初めて自分のものに見えた。
「では、まず金貨2,000枚」
サロメが別の書面を机へ置いた。
「残りは、神殿の一般運営収入と、今後設ける聖女職の報酬予算から分割して支払う。指定寄付と公的な医療補助金は除外する」
「10年であれば」
会計官が計算する。
「運営を止めずに可能です」
リディアが、少し息を吐いた。
「患者の薬は減らないのですね」
「その前提で組みますのでご安心ください」
エルネスタが答えた。
「さらに、今後の契約を改めます」
レオンが条件書を開いた。
「3か月の治療休暇。その間の生活費は神殿負担」
「3か月も?」
治癒院長が声を上げる。
「外部医師の診断です」
「患者は」
「治癒師と医師による選別を徹底します。王立治療院から、臨時の応援を出せるかも別途調整します」
「奇跡が必要な者は?」
「緊急時に限り、リディア様本人の同意を得る」
「休暇中も?」
「本人が断れます」
リディアは条件書を見つめていた。
「断ってもよいのですか」
「はい」
「誰かが亡くなるかもしれなくても?」
レオンはすぐには答えなかった。
「その可能性はあります」
「法務官殿」
エルネスタが思わず呼ぶ。
「嘘は言えません」
レオンはリディアへ向き直った。
「ですが、1人の人間が、すべての死を防ぐこともできません」
リディアの目に涙が浮かぶ。
「それを、私が決めるのですか」
「1人では決めません」
マティアスが言った。
全員が彼を見る。
「医師と治癒師が判断します。聖女様へお伝えする前に、本当に奇跡しか方法がないかを確認します」
「マティアス」
「これまでは、聖女様へ診せれば早いからと」
若い司祭は指を握った。
「私も、患者を並べていました」
「あなた1人の責任ではありません」
オルディス神殿長が言う。
「はい」
マティアスはうなずいた。
「ですが、私にも責任があります」
神殿長は何も返さなかった。
「休暇後は、1日8時間以内。週に2日の休日」
レオンが続ける。
「重大な奇跡の使用回数は、外部医師の診断を基に上限を定める。夜間呼び出しは、緊急時のみ。神殿外の医師による定期診察を受ける」
「聖女の身体を、外部へ任せるのですか」
「任せるのではありません。意見を聞きます」
「契約期間は1年」
「1年?」
「まず、王都大神殿で試行します」
レオンは上席監査官を見る。
監査官がうなずいた。
「1年後、王国監査院と神殿が共同で見直します。ほかの神殿へ同じ制度を広げるかは、その結果を見て検討します」
すぐに王国全体が変わるわけではない。
今までの制度が、1枚の鑑定書ですべて消えることもない。
それでも、最初の1年は始められる。
「リディア」
オルディス神殿長が言った。
「そなたは、この条件で神殿へ戻るのですか」
リディアは答える前に、エルネスタを見た。
「私が決めてよいのですね」
「はい」
「神殿を辞めても?」
「はい」
「戻っても?」
「はい」
リディアは包帯を巻いた手を見た。
「治したいです」
小さな声だった。
「奇跡を使うことが、嫌なのではありません」
「はい」
「神殿も、嫌いではありません」
オルディス神殿長の肩が、わずかに下がった。
「でも、前と同じには戻れません」
「分かっています」
神殿長は答えた。
リディアが目を上げる。
「本当に?」
神殿長は、すぐには返事をしなかった。
「必要な犠牲だと思っていました」
やがて、彼は言った。
「私も、若いころからそう教えられました。聖女は神に最も近い。ゆえに、耐えられるのだと」
「私も、そう思っていました」
リディアは涙を拭かなかった。
「だから、誰も止めなかったのですね」
「ああ」
「痛いと言っても?」
「痛みまで、尊いものにしてしまった」
神殿長は頭を下げた。
「すまなかった」
リディアは、謝罪を受け取るとも、許すとも言わなかった。
「契約書を読んでから決めます」
「もちろんです」
「写しを、いただけますか」
会計官が、わずかに息を呑む。
「2部作成します」
レオンが答えた。
「1部はリディア様が持ちます」
「では」
リディアは条件書へ手を伸ばした。
「読みます」
彼女が契約書を自分で読み始める。
誰も急かさなかった。
途中で3か所、質問をした。
2か所、言葉を直した。
そして、最後の頁へ署名する前に言った。
「もう1つ、加えてください」
「何でしょう」
「自分で使えるお金を、毎月受け取ること」
「すでに手当の項目があります」
「金額を、書いてください」
会計官が、少し困ったように帳簿を開いた。
「月に金貨2枚では」
「少ないです」
サロメが言った。
「店主」
「王都で花を買い、食事をし、たまに服を買うなら、金貨5枚」
「服は神殿から」
「自分で選びたい日もあるでしょう」
リディアは少し考えた。
「金貨5枚でお願いします」
「分かりました」
会計官が書き加える。
「ほかには?」
リディアはしばらく考えたあと、首を横に振った。
「今は、これで」
署名する。
今度の文書は、古い神聖語ではない。
自分で読み、質問し、条件を加え、写しを受け取る契約だった。




