第26話 写しのない誓約
大神殿の石壁は、朝の光を受けても冷たかった。
長く触れられた扉や床ほど艶を帯び、そこを通った人の数だけが、無言の習慣として積もっている。
神殿長オルディスは、白い法衣をまとった痩身の老人だった。
年齢は60を過ぎているだろう。
長い銀髪を後ろで束ね、胸元には大神殿の印章を下げている。
随行してきたのは、マティアス司祭と、神殿の会計官だった。
「まず、聖女が無事であったことに感謝します」
オルディスは椅子へ座る前に言った。
「ご迷惑をおかけしました」
「私は、迷惑だとは」
リディアが答えかける。
サロメが椅子を引いた。
「立ったままですと話が長くなります。どうぞ」
「……失礼します」
神殿長は座った。
リディアも向かいへ腰を下ろす。
相談机の上には、1通の古びた文書が置かれていた。
「こちらが、奉仕誓約書です」
会計官が言った。
「原本ですか?」
レオンが尋ねる。
「はい」
「写しは」
「神殿の外へ持ち出す性質の文書ではありませんので」
「リディア様は1部もお持ちでない」
「聖女の誓約は、神殿が保管するものです」
レオンは手袋をはめ、文書を開いた。
古い神聖語で書かれている。
下部には、14歳のリディアの署名と、父親の署名があった。
「内容を、現在の王国語へ訳した文書は?」
「ありません」
「署名時に、全文を読み上げましたか?」
「当時の神殿長が説明したはずです」
「記録は?」
会計官が黙った。
「証人は?」
「10年前のことですので」
「いないのですね」
「信仰上の誓約です。商人の契約とは違います」
オルディス神殿長が言った。
「聖女は、神より授かった力を、人々のために使うことを誓います。そこへ金銭を持ち込むべきではありません」
「では」
レオンは誓約書から顔を上げた。
「これは契約ではないのですか?」
「神聖な誓いです」
「契約ではないのなら、神殿が勤務時間や外出を命じる根拠にはなりません」
「勤務ではありません。奉仕です」
「奉仕なら、本人が断ることもできますね」
「聖女には責任があります」
「責任を定める文書なら、契約としての効力と範囲を確認する必要があります」
神殿長の眉が寄る。
「言葉を弄しておられる」
「分けているだけです」
レオンは文書を机へ置いた。
「神殿がリディア様へ具体的な義務を課す根拠として使うのであれば、契約として成立過程と有効性を確認します。信仰上の宣言にすぎないのであれば、世俗上の行動を無制限に強制する根拠にはできません」
エルネスタは、レオンを横目で見た。
神殿を否定しているのではない。
信仰と契約を、勝手に混ぜないようにしている。
「リディア」
神殿長が呼びかけた。
「そなたは、神への誓いを取り消したいのですか」
「分かりません」
「神を信じられなくなったと?」
「いいえ」
リディアは、すぐに首を横に振った。
「神を信じています」
「では、なぜ」
「痛いからです」
神殿長が言葉を止める。
リディアは包帯を巻いた手を、机の上へ置いた。
「奇跡を使うと、痛いのです」
「それは聖痕です」
「はい」
「神に選ばれた証で」
「それも、聞きました」
リディアの声が、少し震えた。
「10年間、ずっと」
マティアスがうつむく。
「痛みをなくしてほしいとは言いません」
リディアは続けた。
「奇跡を使えば、傷ができるのだと思います。使わなければ救えない方もいます」
「ならば」
「でも、1日に50回も使わなくてよいようにしてください」
神殿長の表情が変わった。
「50回?」
「一昨日は、53回でした」
「そのような回数を、誰が許可した」
「治癒院長です」
「治癒院長は、患者を診察して」
「神殿長」
エルネスタが口を挟んだ。
「許可の問題ではありません」
「何?」
「なぜ、53回使えると考えたのですか?」
「聖女は、これまでも」
「できていたから?」
「そうです」
「傷が増えても?」
「報告を受けていません」
「見なかったのですか?」
少し強い声になった。
神殿長がエルネスタを見る。
「聖女の身体は、神殿の医師が管理しています」
「医師は、この傷を治療しないと判断しました」
「聖痕だからです」
「先ほどから、同じ言葉ですね」
エルネスタは自分の声が冷たくなっていることに気づいた。
机の下で、サロメが靴先を軽く当ててくる。
落ち着け、ということらしい。
「すみません」
エルネスタは息を吐いた。
「その言葉で、治療しなくてよいと判断した根拠を確認したいのです」
「聖典に記されています」
「身体の損傷を放置するように?」
「神の力を受けた印は、消してはならないと」
「痛みを和らげてはならないとも?」
神殿長は答えなかった。
マティアスが、ためらいながら口を開く。
「そこまでは、記されていません」
「マティアス」
「聖痕を隠すなとはあります。ですが、包帯を替えるなとも、薬を使うなとも」
若い司祭は、リディアの手を見た。
「ありません」
神殿長は目を閉じた。
「医師の判断を確認します」
「神殿とは関係のない医師にも診せてください」
リディアが言った。
「外部の医師へ?」
「はい」
「神殿の医師を信じられないのですか」
「分かりません」
リディアは正直に答えた。
「ほかの方の意見を、聞いたことがありませんから」




