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婚約破棄鑑定士は、恋を値切らない  作者: くるみ
第2章 聖女の奇跡には、請求書がない

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25/32

第25話 12人の患者

夜気には雨の匂いがなかった。

代わりに遠くの治癒院から鐘の音が届き、誰かが待っているという事実だけが、見えない重さで店に残った。


「今日は、戻りません」


リディアの声は小さかった。

それでも、言い直す必要はなかった。

若い司祭は、しばらく彼女を見つめていた。


「ですが、患者が待っています」

「分かっています」

「12人です」

「先ほど伺いました」

「聖女様にしか治せない方もいらっしゃいます」


リディアの指が、包帯の上から傷へ触れた。

立ち上がろうとはしない。

けれど、顔色は悪くなっていた。


「マティアス司祭」


レオンが法令集を閉じた。


「12人の病状を説明できますか」

「なぜ、あなたに」

「王国監査院の法務官です。今、この場で緊急性を確認します」

「神殿の治癒院は、監査院の管轄ではありません」

「患者の生命に危険があると、あなたが申し立てました」


レオンは椅子から立った。


「それが事実なら、聖女を連れ戻す前に、必要な治療を手配すべきです」

「必要な治療とは」

「王立治療院への搬送。近隣の治癒師への応援要請。神殿内の医師による再診察。私に命令権はありませんが、緊急連絡の手配はできます」

「奇跡が必要なのです」

「12人全員に?」


マティアスは答えなかった。


「記録をお持ちですか」

「治癒院にあります」

「では、使者を出してください」

「そんな時間は」

「12人全員が、今すぐ聖女の奇跡を受けなければ死亡する状態ですか?」

「それは……」


司祭の視線が、リディアへ移る。

いつもなら、その1言でリディアは立ち上がったのだろう。

患者が待っている。

それだけで十分だった。


「重症の方は何人ですか」


リディアが尋ねた。


「3人です」

「ほかの9人は?」

「慢性の痛みや、回復が遅れている方です」

「今日でなければ、亡くなりますか?」

「そうではありません。ですが、皆、聖女様を待って」

「順番を待っているのですね」


マティアスの言葉が止まる。

リディアは包帯を巻いた手を膝の上へ戻した。


「3人の方を、王立治療院へ移してください」

「聖女様」

「治癒師が診て、それでも奇跡が必要だと言われたら」


彼女は1度、息を吸った。


「こちらへ連れてきてください」


エルネスタは思わず口を開いた。


「リディア様」

「治さないとは言えません」

「ですが、今日は戻らないと」

「戻りません」


リディアは店の扉を見た。


「神殿へ戻れば、3人では終わらないと思います」


マティアスが、苦しそうに目を伏せる。

否定しなかった。


「患者を、こちらへ運ぶのですか?」


エルネスタがサロメを見る。


「治療院ではありませんが」

「奥の倉庫を空ければ、寝台は2つ置けます」

「店主」

「ほかに場所がありますか?」

「乾燥薬草があります」

「移します」

「鑑定用の古文書も」

「それは法務官殿に持たせましょう」


レオンが顔を上げた。


「なぜ私が」

「監査ですから」

「便利な言葉ですね」


サロメはマティアスへ向き直った。


「重症患者3名は、まず王立治療院へ。搬送中に危険があれば、こちらへ連れてきてください」

「しかし」

「今、聖女様を無理に連れて帰れば」


サロメはリディアの包帯へ目を向けた。


「明日から、治せる人が1人もいなくなるかもしれませんよ」


マティアスも、ようやくリディアの手を見た。


「その傷は」

「聖痕です」

「そこまで悪化していたのですか」

「前からです」

「なぜ、言わなかったのです」


リディアは少し驚いたような顔をした。


「聖痕だから、耐えるようにと」

「誰が」

「最初は、前の神殿長が」

「今は?」

「皆が、そう言います」


マティアスの唇が動いた。

何かを言おうとしたようだったが、声にはならなかった。


「私も、言いましたか」


しばらくして、彼は尋ねた。


「はい」

「いつ」

「先月です。包帯を増やしていただけないかとお願いしたときに」


マティアスの顔から血の気が引いた。


「私は」

「覚えていませんか?」

「聖なる務めには痛みが伴う、と」

「はい」

「……言いました」


店内に沈黙が落ちる。

若い司祭は、悪意があってリディアを傷つけたわけではない。

おそらく、自分も同じ言葉を教えられてきたのだ。

だから、考えずに口にした。

考えなかったことが、傷を軽くするわけではないけれど。


「使者を出します」


マティアスは言った。


「王立治療院へ、3名の受け入れを依頼します」

「お願いします」

「聖女様は、本当に」

「今日は戻りません」


2度目は、先ほどよりも少しだけ声が大きかった。


「分かりました」


マティアスは深く頭を下げた。


「神殿長へ報告します」

「明日、私からも話します」

「明日?」

「今日ではなく」


リディアは自分で確かめるように言った。


「明日です」



重症患者のうち、2人は王立治療院で処置を受けることになった。

残る1人だけが、日が沈む前に《未練商会》へ運ばれてきた。

腹部を深く傷つけた青年だった。

医師が止血を試みたものの、朝までは持たないという。

リディアは倉庫へ入る前に、エルネスタへ尋ねた。


「1回だけなら、よいでしょうか」

「私が決めることではありません」

「そうですね」

「ご自分で決めてください」


リディアは、閉じた扉の向こうを見た。


「治したいです」

「分かりました」

「終わったら、休みます」

「はい」

「本当に、休んでよいのですよね」

「休ませなければ、私が請求書を出します」


サロメが横から言った。


「誰にですか?」

「神殿と、起きようとした聖女様の両方へ」


リディアが、わずかに笑った。


「では、請求されないようにします」


治癒は、20分ほどで終わった。

青年の呼吸が落ち着いたとき、リディアはその場へ座り込んだ。

エルネスタが抱き留める。


「リディア様」

「大丈夫です」

「その言葉は、しばらく禁止にします」

「では……眠いです」

「正直で結構です」


サロメは2階にある小さな客室を用意した。

もとは仕入れた品を置く部屋だったが、寝台だけはある。

リディアは横になると、靴を脱ぐ前に目を閉じた。


「聖女様」


エルネスタが声をかける。

返事はない。

呼吸は深く、規則正しかった。


「寝ましたね」

「寝かせておきましょう」


サロメが毛布をかける。


「明日の朝は?」

「起こしません」

「神殿から迎えが来たら」

「扉に閉店の札を出します」

「朝から?」

「臨時休業です」


サロメは部屋を出ようとして、足を止めた。


「クルミ」


寝台の端に、銀灰色の尾が見えていた。

クルミはいつの間にか毛布の上へ乗り、丸くなっている。


「キュ」

「そこにいるのですか」


クルミは動かなかった。


「仕方ありません。聖女様を起こさないでください」


通じたかどうかは分からない。

ただ、クルミはその夜、盗みもせず、朝まで寝台を離れなかった。



リディアが目を覚ましたのは、翌日の昼過ぎだった。


「今、何時ですか」


寝台の上で、彼女は青ざめた。


「1時を少し過ぎたところです」

「1時?」

「午後の」

「どうして起こしてくださらなかったのですか」


立ち上がろうとして、毛布につまずく。


「神殿へ行かなければ」

「今日は、神殿長と話をする予定です」


エルネスタは水の入った杯を渡した。


「治癒の予定ではありません」

「でも、患者が」

「治癒院から報告が届いています。昨日待っていた9人は、医師と治癒師が診察しました」

「皆、無事ですか?」

「はい。今日でなければならない方はいなかったそうです」


リディアは杯を持ったまま、動かなかった。


「そうですか」

「はい」

「私がいなくても」


その先を口にするまで、少し時間がかかった。


「皆、亡くならなかったのですね」

「亡くなりませんでした」


リディアは水を1口飲んだ。

安心したのか、傷ついたのか。

どちらともつかない顔をしていた。


「聖女様が必要ないという意味ではありません」


エルネスタは言った。


「でも、すべての患者を1人で治す必要もないのだと思います」

「分かっています」


リディアは小さく答えた。


「分かっているつもりでした」


杯を持つ手が震える。


「でも、私がいなければ誰かが死ぬと、ずっと言われてきました」

「実際に、そのようなこともあったのでしょう」

「はい」

「毎日ではなかった」

「……はい」


リディアは水面を見つめた。


「毎日だと思っていました」


10年間、誰も分けなかったのだ。

今すぐ奇跡が必要な人。

明日でもよい人。

奇跡を使わず、医師や薬で治せる人。

聖女が断れないと分かっていたから、すべてを同じ列へ並べてしまった。

階下で、扉の鐘が鳴った。


「神殿長がお見えです」


サロメの声がする。

リディアは包帯を見た。

それから、ゆっくりと寝台を降りた。


「今度は」


エルネスタが言う。


「ご自分で話せそうですか?」

「分かりません」

「途中で止まっても構いません」

「はい」

「私たちも同席します」


リディアは少しだけ肩の力を抜いた。


「お願いします」


10年間の話を、1度ですべて伝える必要はない。

今日は、その最初の日だった。

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