第25話 12人の患者
夜気には雨の匂いがなかった。
代わりに遠くの治癒院から鐘の音が届き、誰かが待っているという事実だけが、見えない重さで店に残った。
「今日は、戻りません」
リディアの声は小さかった。
それでも、言い直す必要はなかった。
若い司祭は、しばらく彼女を見つめていた。
「ですが、患者が待っています」
「分かっています」
「12人です」
「先ほど伺いました」
「聖女様にしか治せない方もいらっしゃいます」
リディアの指が、包帯の上から傷へ触れた。
立ち上がろうとはしない。
けれど、顔色は悪くなっていた。
「マティアス司祭」
レオンが法令集を閉じた。
「12人の病状を説明できますか」
「なぜ、あなたに」
「王国監査院の法務官です。今、この場で緊急性を確認します」
「神殿の治癒院は、監査院の管轄ではありません」
「患者の生命に危険があると、あなたが申し立てました」
レオンは椅子から立った。
「それが事実なら、聖女を連れ戻す前に、必要な治療を手配すべきです」
「必要な治療とは」
「王立治療院への搬送。近隣の治癒師への応援要請。神殿内の医師による再診察。私に命令権はありませんが、緊急連絡の手配はできます」
「奇跡が必要なのです」
「12人全員に?」
マティアスは答えなかった。
「記録をお持ちですか」
「治癒院にあります」
「では、使者を出してください」
「そんな時間は」
「12人全員が、今すぐ聖女の奇跡を受けなければ死亡する状態ですか?」
「それは……」
司祭の視線が、リディアへ移る。
いつもなら、その1言でリディアは立ち上がったのだろう。
患者が待っている。
それだけで十分だった。
「重症の方は何人ですか」
リディアが尋ねた。
「3人です」
「ほかの9人は?」
「慢性の痛みや、回復が遅れている方です」
「今日でなければ、亡くなりますか?」
「そうではありません。ですが、皆、聖女様を待って」
「順番を待っているのですね」
マティアスの言葉が止まる。
リディアは包帯を巻いた手を膝の上へ戻した。
「3人の方を、王立治療院へ移してください」
「聖女様」
「治癒師が診て、それでも奇跡が必要だと言われたら」
彼女は1度、息を吸った。
「こちらへ連れてきてください」
エルネスタは思わず口を開いた。
「リディア様」
「治さないとは言えません」
「ですが、今日は戻らないと」
「戻りません」
リディアは店の扉を見た。
「神殿へ戻れば、3人では終わらないと思います」
マティアスが、苦しそうに目を伏せる。
否定しなかった。
「患者を、こちらへ運ぶのですか?」
エルネスタがサロメを見る。
「治療院ではありませんが」
「奥の倉庫を空ければ、寝台は2つ置けます」
「店主」
「ほかに場所がありますか?」
「乾燥薬草があります」
「移します」
「鑑定用の古文書も」
「それは法務官殿に持たせましょう」
レオンが顔を上げた。
「なぜ私が」
「監査ですから」
「便利な言葉ですね」
サロメはマティアスへ向き直った。
「重症患者3名は、まず王立治療院へ。搬送中に危険があれば、こちらへ連れてきてください」
「しかし」
「今、聖女様を無理に連れて帰れば」
サロメはリディアの包帯へ目を向けた。
「明日から、治せる人が1人もいなくなるかもしれませんよ」
マティアスも、ようやくリディアの手を見た。
「その傷は」
「聖痕です」
「そこまで悪化していたのですか」
「前からです」
「なぜ、言わなかったのです」
リディアは少し驚いたような顔をした。
「聖痕だから、耐えるようにと」
「誰が」
「最初は、前の神殿長が」
「今は?」
「皆が、そう言います」
マティアスの唇が動いた。
何かを言おうとしたようだったが、声にはならなかった。
「私も、言いましたか」
しばらくして、彼は尋ねた。
「はい」
「いつ」
「先月です。包帯を増やしていただけないかとお願いしたときに」
マティアスの顔から血の気が引いた。
「私は」
「覚えていませんか?」
「聖なる務めには痛みが伴う、と」
「はい」
「……言いました」
店内に沈黙が落ちる。
若い司祭は、悪意があってリディアを傷つけたわけではない。
おそらく、自分も同じ言葉を教えられてきたのだ。
だから、考えずに口にした。
考えなかったことが、傷を軽くするわけではないけれど。
「使者を出します」
マティアスは言った。
「王立治療院へ、3名の受け入れを依頼します」
「お願いします」
「聖女様は、本当に」
「今日は戻りません」
2度目は、先ほどよりも少しだけ声が大きかった。
「分かりました」
マティアスは深く頭を下げた。
「神殿長へ報告します」
「明日、私からも話します」
「明日?」
「今日ではなく」
リディアは自分で確かめるように言った。
「明日です」
*
重症患者のうち、2人は王立治療院で処置を受けることになった。
残る1人だけが、日が沈む前に《未練商会》へ運ばれてきた。
腹部を深く傷つけた青年だった。
医師が止血を試みたものの、朝までは持たないという。
リディアは倉庫へ入る前に、エルネスタへ尋ねた。
「1回だけなら、よいでしょうか」
「私が決めることではありません」
「そうですね」
「ご自分で決めてください」
リディアは、閉じた扉の向こうを見た。
「治したいです」
「分かりました」
「終わったら、休みます」
「はい」
「本当に、休んでよいのですよね」
「休ませなければ、私が請求書を出します」
サロメが横から言った。
「誰にですか?」
「神殿と、起きようとした聖女様の両方へ」
リディアが、わずかに笑った。
「では、請求されないようにします」
治癒は、20分ほどで終わった。
青年の呼吸が落ち着いたとき、リディアはその場へ座り込んだ。
エルネスタが抱き留める。
「リディア様」
「大丈夫です」
「その言葉は、しばらく禁止にします」
「では……眠いです」
「正直で結構です」
サロメは2階にある小さな客室を用意した。
もとは仕入れた品を置く部屋だったが、寝台だけはある。
リディアは横になると、靴を脱ぐ前に目を閉じた。
「聖女様」
エルネスタが声をかける。
返事はない。
呼吸は深く、規則正しかった。
「寝ましたね」
「寝かせておきましょう」
サロメが毛布をかける。
「明日の朝は?」
「起こしません」
「神殿から迎えが来たら」
「扉に閉店の札を出します」
「朝から?」
「臨時休業です」
サロメは部屋を出ようとして、足を止めた。
「クルミ」
寝台の端に、銀灰色の尾が見えていた。
クルミはいつの間にか毛布の上へ乗り、丸くなっている。
「キュ」
「そこにいるのですか」
クルミは動かなかった。
「仕方ありません。聖女様を起こさないでください」
通じたかどうかは分からない。
ただ、クルミはその夜、盗みもせず、朝まで寝台を離れなかった。
*
リディアが目を覚ましたのは、翌日の昼過ぎだった。
「今、何時ですか」
寝台の上で、彼女は青ざめた。
「1時を少し過ぎたところです」
「1時?」
「午後の」
「どうして起こしてくださらなかったのですか」
立ち上がろうとして、毛布につまずく。
「神殿へ行かなければ」
「今日は、神殿長と話をする予定です」
エルネスタは水の入った杯を渡した。
「治癒の予定ではありません」
「でも、患者が」
「治癒院から報告が届いています。昨日待っていた9人は、医師と治癒師が診察しました」
「皆、無事ですか?」
「はい。今日でなければならない方はいなかったそうです」
リディアは杯を持ったまま、動かなかった。
「そうですか」
「はい」
「私がいなくても」
その先を口にするまで、少し時間がかかった。
「皆、亡くならなかったのですね」
「亡くなりませんでした」
リディアは水を1口飲んだ。
安心したのか、傷ついたのか。
どちらともつかない顔をしていた。
「聖女様が必要ないという意味ではありません」
エルネスタは言った。
「でも、すべての患者を1人で治す必要もないのだと思います」
「分かっています」
リディアは小さく答えた。
「分かっているつもりでした」
杯を持つ手が震える。
「でも、私がいなければ誰かが死ぬと、ずっと言われてきました」
「実際に、そのようなこともあったのでしょう」
「はい」
「毎日ではなかった」
「……はい」
リディアは水面を見つめた。
「毎日だと思っていました」
10年間、誰も分けなかったのだ。
今すぐ奇跡が必要な人。
明日でもよい人。
奇跡を使わず、医師や薬で治せる人。
聖女が断れないと分かっていたから、すべてを同じ列へ並べてしまった。
階下で、扉の鐘が鳴った。
「神殿長がお見えです」
サロメの声がする。
リディアは包帯を見た。
それから、ゆっくりと寝台を降りた。
「今度は」
エルネスタが言う。
「ご自分で話せそうですか?」
「分かりません」
「途中で止まっても構いません」
「はい」
「私たちも同席します」
リディアは少しだけ肩の力を抜いた。
「お願いします」
10年間の話を、1度ですべて伝える必要はない。
今日は、その最初の日だった。




