第23話 53回の奇跡
午後の光が傾くにつれ、店内の白い壁は灰色に変わった。
リディアの話だけが朝から夜へ進み、1日の長さを少しずつ異様なものにしていった。
「同じではないのですか?」
「私は神に会ったことがないので、分かりません」
サロメはリディアの前へ杯を置いた。
「ただ、神殿の帳簿へ署名しているのは、たいてい人間です」
「店主」
「何です?」
「最初から、そのような言い方をしなくても」
「薄いお茶のほうがよかったですか?」
「お茶の話ではありません」
リディアが、湯気の立つ杯を両手で包んだ。
「神殿の外で、お茶をいただくのは久しぶりです」
「外へ出ないのですか?」
エルネスタが尋ねる。
「治癒院への移動はあります」
「それ以外に」
「ありません」
「10年間?」
「祭礼の行列には出ます」
外出に含めてよいのか迷う答えだった。
「休日は?」
「月に1度、安息日があります」
「その日は、奇跡を使わない?」
「急患がいれば使います」
「昨日までの3か月で、使わなかった安息日は何日ありました?」
リディアは指を折った。
1度。2度。途中で手が止まる。
「……1日です」
「3か月で?」
「皆さん、怪我や病気になる日を選べませんから」
悪いのは患者ではない。
その通りだった。
だからこそ、誰かが仕組みを整えなければならない。
「包帯を、見せます」
リディアは右腕を机の上へ置いた。
結び目をほどく。
白い布の下から現れた皮膚には、細かな亀裂が走っていた。
火傷のように赤く、指の付け根には乾いた血が残っている。
エルネスタは息を呑んだ。
「これは、いつから?」
「3年ほど前からです」
「医師には?」
「聖痕ですので、治療するものではないと」
「聖痕」
「神の力を多く受けた証です」
レオンが席を立ち、手の傷へ近づいた。
触れはしない。
「痛みは?」
「少し」
「今も?」
「慣れています」
「痛みの強さを聞いています」
「……かなり」
リディアは小さく答えた。
「奇跡を使うと、この傷が増えるのですか?」
「大きな怪我を治すと」
「昨日は、何回使いました?」
「53回です」
「患者は47人では?」
エルネスタが確認する。
「兵士の方に3回。熱病の子どもに2回。それから、夜の方に」
「夜の方?」
「宴席で倒れた侯爵様です」
「神殿の宴席ですか?」
「寄付者の方々をお招きした晩餐会でした」
「リディア様も出席したのですね」
「はい。聖女が感謝を伝える場ですので」
「何時から?」
「8時です」
「治癒院は、何時まで?」
「7時半まで」
「夕食は?」
「晩餐会で少し」
「座りました?」
「挨拶をして回っていましたから」
エルネスタは昨日1日の時間を書き並べた。
4時半、起床。
6時まで祈り。
6時から19時半まで治癒。
20時から晩餐会。
侯爵が倒れたのが22時。
治癒を終え、部屋へ戻ったのが23時過ぎ。
「眠ったのは?」
「12時前だったと思います」
「5時間もありませんね」
「いつものことです」
「いつも」
エルネスタはその言葉へ線を引いた。
「神殿から報酬は?」
「いただいていません」
「まったく?」
「部屋と食事と衣服をいただいています」
「自由に使えるお金は?」
「必要な物は、神殿へお願いすれば用意していただけます」
「断られたことは?」
「あります」
「何を?」
リディアは言いにくそうに包帯を巻き直した。
「母のお墓へ供える花を」
「なぜです?」
「神殿の支出にはできないと」
「ご自分のお金は?」
「持っていません」
10年間働いて、花1つ買えない。
エルネスタはペンを握り直した。
「晩餐会に来た方々は、寄付をなさるのですか?」
「はい」
「1晩で、どれくらい?」
「金額は知りません」
「寄付は、何に使われます?」
「治癒院の運営と、貧しい方々の救済です」
「リディア様の治療には?」
「必要ありません。聖痕ですから」
同じ言葉だった。
レオンが法令集を閉じる。
「神殿へ入ったとき、契約書へ署名しましたか?」
「奉仕誓約書に」
「おいくつでした?」
「14歳です」
「内容は理解していましたか?」
「神へ一生を捧げると」
「全文を読めましたか?」
「古い神聖語でしたので、司祭様に説明していただきました」
「写しは?」
「ありません」
レオンの眉が、わずかに動いた。
「保護者の署名は?」
「父が」
「お父上は今、どちらに?」
「5年前に亡くなりました」
「ほかにご家族は?」
「いません」
店内が静かになる。
リディアは包帯を巻き終え、手を膝へ戻した。
クルミが、その手へ鼻先を寄せる。
「キュ」
「大丈夫ですよ」
リディアはクルミへ微笑みかけた。
「いつもより、今日は痛くありません」
クルミの黒い尾が、大きく左右へ揺れた。
「その布は、神殿から支給された物ですか?」
エルネスタが包帯を指す。
「はい」
「昨日、巻いたもの?」
「いいえ。1週間ほど使っています」
「毎日交換しないのですか?」
「洗って乾かします」
レオンが眼鏡を外した。
眉間を押さえる。
「治癒院で、包帯が不足しているのですか?」
「患者の方を優先しますから」
「寄付を受けているのに?」
エルネスタが言うと、リディアは少し慌てた。




