第21話 初めての給金
季節が少し進み、店先の風から冬の尖りが消えていた。
終わった契約のあとにも、生活だけは何事もなかったように続いていく。
合意書への署名は、1時間後に終わった。
婚姻は無効ではなく、正式な離縁とする。
持参金は全額返還。
売却された私有財産は、確認された金額で補填。
残る補償金は、10年間の分割払い。
伯爵家の公式記録には、クラリッサが6年間、家政管理と領地事務補佐を担ったことを記載する。
義母の介助は、今後、雇用契約を結んだ者へ引き継ぐ。
「最後に、一点」
レオンが口を開いた。
「伯爵家の帳簿に、持参金の使用先が記載されていない箇所があります」
伯爵の肩が落ちる。
「まだあるのか」
「監査上、別途確認します」
「今日、終わるのでは?」
「離縁の交渉は終わりました」
「監査は?」
「必要な範囲で続きます。資料の確認については、伯爵家と改めて日程を調整します」
伯爵は、サロメへ助けを求めるような目を向けた。
「法務官殿の担当ですので」
サロメは茶を飲んだ。
「当店ではどうにもできません」
「あなた方は、仲間ではないのか」
「違います」
エルネスタとレオンの声が重なった。
2人は互いを見た。
「同時に否定しなくても」
クラリッサが笑う。
*
クラリッサが新しい職を得たのは、それから2か月後だった。
王都の商家で、家政管理と帳簿整理を任された。
正式な雇用契約があり、給金は月末に支払われる。
最初の給料日、彼女は《未練商会》へ菓子を持ってきた。
「皆様でどうぞ」
「依頼人からの贈答品は、銀貨5枚までです」
エルネスタが箱を確認する。
「これは?」
「銀貨4枚と銅貨8枚でした」
「適正です」
「そこまで確認するのですか」
「法務官殿が見ていますので」
レオンはカウンターで書類を読んでいた。
「私は何も言っていません」
「言う前に確認しました」
「そうですか」
クルミが菓子箱へ近づく。
「あなたの分はありませんよ」
「キュ」
「胡桃は入っていません」
クルミは興味を失い、クラリッサの膝へ移った。
「この子は、相変わらずですね」
「最近は、泣いているお客様の膝を選ぶようになりました」
「私は泣いていませんが」
クラリッサが言う。
「では、菓子の匂いでしょう」
レオンが答えた。
「法務官殿」
「期待させないためです」
「その言い方、まだ直っていないのですね」
クラリッサは笑った。
以前より、よく笑うようになった。
「新しいお仕事はどうですか?」
エルネスタが尋ねる。
「忙しいです」
「つらいですか?」
「いいえ」
クラリッサは少し考えた。
「同じようなことをしているのに、不思議ですね」
「何がです?」
「今は、仕事が終わると、終わったと言ってもらえます」
「はい」
「月末には、給金も出ます」
「はい」
「それだけで、ずいぶん違います」
エルネスタはうなずいた。
労働の内容だけではない。
誰が行ったのか記録されること。
終わったと認められること。
対価が支払われること。
その1つ1つが、なかったことにされないための証明になる。
店の扉が開いた。
新しい客が、遠慮がちに顔を覗かせる。
「あの、こちらでは、神殿との契約も鑑定できますか?」
若い女性だった。
白い衣の袖から、包帯が見えている。
エルネスタは立ち上がった。
「ご相談の内容によります」
「私は聖女です」
女性は、疲れた声で言った。
「10年間、治癒の奇跡を使ってきました。でも、神への奉仕だから、報酬は必要ないと言われて」
サロメが茶の杯を置いた。
レオンが書類から顔を上げる。
クルミの黒い尾が、ゆっくりと揺れた。
「まず」
エルネスタは新しい手帳を開いた。
「昨日1日に何をなさったか、朝から順にお聞かせいただけますか」
若い聖女が、驚いたように瞬きをする。
それから、静かに話し始めた。




