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婚約破棄鑑定士は、恋を値切らない  作者: くるみ
第1章 白い結婚には、家事代が含まれますか

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18/21

第18話 値段にできないもの

店の外では夕刻の鐘が鳴っていた。

数字を足す手は止められても、6年の記憶まで同じところで区切ることはできなかった。


「では、この金額をご主人へ請求しますか?」


エルネスタが尋ねる。

クラリッサは銀秤から目を離した。


「全額を」

「はい」

「夫に支払えるでしょうか」

「私有財産、領地収入、今後の分割払いを含めれば、不可能ではありません」


レオンが答える。


「ただし、すぐに全額というのは難しいでしょう」

「領地を売ることになりますか?」

「その可能性は低い」

「使用人を減らすことは?」

「伯爵家の判断です」


クラリッサの顔が曇る。


「私が請求したせいで、皆が職を失うのは」

「クラリッサ様」


エルネスタは呼びかけた。


「今、それをお考えになる必要はありません」

「ですが」

「誰を雇い、どの財産から支払うかは、伯爵が考えることです」

「でも、私が」

「また、引き受けるのですか?」


クラリッサが黙る。


「まだ、あの家の負担を」


言い方が強くなった。

エルネスタは息を整えた。


「……すみません」

「いいえ」

「ただ、請求することと、誰かを困らせることを、同じにしないでください」

「難しいですね」

「はい」


エルネスタ自身にも、まだ難しかった。

王太子へ金貨84,000枚を請求したときは、迷わなかった。

相手は王家で、支払能力もあった。

何より、怒っていた。

けれど、目の前のクラリッサは、夫の家が困ることまで心配している。

サロメが茶を置いた。


「全額を請求しても、全額を金貨で受け取る必要はありません」

「どういう意味ですか?」


クラリッサが尋ねる。


「交渉で分けます」


サロメは指を折った。


「金銭。財産。公的な記録。謝罪。引き継ぎ。相手が出せるものと、あなたが必要なものを並べる」

「値切るのですか?」

「場合によります」

「店主」


エルネスタが口を挟む。


「損害を安くするわけではありません」

「分かっています」


サロメは肩をすくめた。


「値段を下げるのではなく、支払い方を変えるのです」


クラリッサは少し考えた。


「私が欲しいものを、決めてもよいのですか?」

「依頼人ですから」

「では」


彼女は指輪の跡へ触れた。


「婚姻を無効にはしないでください」


エルネスタは手帳を開いた。


「離縁として記録する、ということですね」

「はい。私は、6年間、あの家の妻でした」

「分かりました」

「持参金と、売った私物は返してほしいです」

「はい」

「義母の服薬記録と、屋敷の引継書を、次の方へ渡したいです」

「それは別料金で作成します」


クラリッサが小さく笑う。


「それから」


少し迷ってから、彼女は続けた。


「伯爵家の記録に、私が行った仕事を残してほしいです」

「どのような形で?」

「分かりません」

「こちらで案を作ります」


エルネスタは書き留めた。


「金銭については?」

「残った分を、分割で」

「全額を請求してよろしいですか?」


クラリッサはしばらく考えた。


「はい」


今度は、はっきりと答えた。


「お願いします」



その日の夕方、ヴァルナー伯爵が《未練商会》へ現れた。

先触れはなかった。

扉を開けるなり、相談机の上に置かれた鑑定書を見つけた。


「金貨2,468枚とは、何の冗談だ」

「先ほど完成したところです」


エルネスタが答える。


「なぜ、あなたが知っているのですか?」

「妻から手紙が届いた」


クラリッサは、先に知らせたらしい。


「本人が直接?」

「そうだ」


伯爵の顔は青ざめていた。


「この金額を、本当に請求するつもりなのか」

「クラリッサ様のご意思です」

「あれが?」

「はい」


伯爵は、信じられないという顔をした。


「そんなはずはない」

「なぜです?」

「クラリッサは、金のことで争う女ではない」

「ですから、今まで請求しなかったのでしょう」


エルネスタは鑑定書を持ち上げた。


「ですが、請求しないことと、損害がなかったことは別です」

「支払えるわけがない」

「分割案をご用意しています」

「そういう問題ではない!」


クルミが驚いて、棚の上へ逃げた。

伯爵は額へ手を当てる。


「なぜ、急に」

「急ではありません」

「6年間、何も言わなかったのだぞ」

「何も言わなければ、何も感じていないと?」

「そうではない」

「では、何ですか?」


伯爵は答えられなかった。

エルネスタは少し待った。


「クラリッサ様は、離縁に同意されています」

「……そうか」

「婚姻無効には同意していません」

「白い結婚だった」

「それでも、6年間の婚姻生活は存在しました」

「金を払えば、それで終わるのか」

「終わらせるための条件は、ほかにもあります」


エルネスタは書面を差し出した。

伯爵は受け取ろうとしなかった。


「読んでください」

「今はいい」

「読まずに、どう交渉なさるのですか?」

「交渉?」

「はい」

「私は、この金額を認めていない」

「認めるかどうかを話し合うための交渉です」


伯爵は、ようやく書面を受け取った。

最初の頁を開く。

私有財産。家政管理。

介助。領地事務。記録訂正。

1行読むたび、顔が険しくなった。

それでも、頁を閉じることはなかった。


「妻であれば、これくらいは」


伯爵が言いかける。

エルネスタは黙って待った。

彼は続けなかった。

何度も口にした言葉だった。

もう、それだけでは説明できないと気づき始めているらしい。


「……これを、クラリッサが望んだのか」

「はい」

「本当に?」

「ご本人へお尋ねください」

「会ってくれるだろうか」


それは、エルネスタへ聞くことではなかった。


「私には分かりません」

「あなたが説得してくれ」

「お断りします」

「なぜだ」

「クラリッサ様の意思を、あなたの都合に合わせる仕事ではありません」


伯爵の手が、鑑定書の端を強く握った。


「では、私はどうすればいい」

「書面を読んでください」

「読んでいる」

「最後まで」

「そのあとだ」

「ご自分で考えてください」


少し冷たすぎただろうか。

エルネスタが迷っていると、サロメがカウンターから声をかけた。


「分からなければ、明日また来てください」

「明日?」

「今日はもう閉店です」

「まだ話は」

「時間外料金を払うなら続けます」


伯爵は黙った。


「払います」


サロメが眉を上げる。


「では、座ってください」

「店主」

「払うと言っているので」


伯爵は相談机の椅子へ座った。

鑑定書を開き直す。

エルネスタも向かいへ座った。


「最初から説明します」

「頼む」

「まず、金貨328枚。クラリッサ様が売却した私有財産です」

「……ああ」

「ここに異議はありますか?」


伯爵はしばらく紙を見ていた。


「ない」


それが、最初の1つだった。

認められたのは、まだ17件の売却だけ。

6年間には、遠く及ばない。

それでも、何もしていなかったという言葉からは、少しだけ離れた。

棚の上で、クルミが尾をゆっくりと揺らしていた。

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