第17話 6年分の値段
銀秤の皿を磨くと、天井の灯りが歪んで映った。
積み上がった記録は乾いた紙にすぎないが、その厚みだけで机の上の空気が重く見えた。
銀秤の片方の皿へ、クラリッサの結婚証明書を載せる。
もう片方には、6年間の記録を1つずつ置いていった。
持参品目録。
真珠飾りの買い取り証明書。
屋根を修理した工房の帳簿。
老婦人の服薬記録。
台所帳。
使用人の雇用記録。
領地から届いた書状の写し。
クラリッサが残した、小さな紙の束。
紙を載せるたび、銀秤の針がわずかに揺れた。
最後に、クラリッサ本人の証言書を置く。
皿がゆっくりと沈んだ。
淡い青色の炎が上がる。
強い感情が残っているときに現れる色だった。
「これは、夫への未練でしょうか」
クラリッサが尋ねた。
声には、少しだけ緊張があった。
「それは分かりません」
エルネスタは答えた。
「この秤が示すのは、提出された品に強い感情が残っていることだけです。ご主人へのお気持ちかもしれませんし、義母上や使用人、この屋敷での暮らしに対するものかもしれません」
「では、正確には分からないのですね」
「はい」
クラリッサは少し意外そうな顔をした。
「もっと、何でも分かるものだと思っていました」
「私も、最初はそう思いました」
エルネスタは苦笑した。
「けれど、銀秤が出せるのは手がかりだけです。何に未練があるのかは、ご本人に伺うしかありません」
「そうですか」
「残念ですか?」
「いいえ」
クラリッサは炎を見つめた。
「何もかも道具に決められてしまうより、そのほうがよい気がします」
エルネスタも、そう思った。
銀秤が人の心をすべて決めてしまうなら、鑑定士は必要ない。
「では、続けます」
価値衡の針の揺れと、提出資料の整合を確認する。
金額を出すのは、ここから先の人間の仕事だ。
実際の支出額。
当時の家政管理者や事務補佐の標準報酬。
介助人を雇った場合の相場。
クラリッサ自身が伯爵家の住居や食事から受けていた利益。
それらを1項目ずつ、証拠のある範囲で足し引きする。
「まず、私有財産の補填です」
エルネスタは帳簿を開いた。
「売却記録が確認できた17件。合計、金貨328枚」
クラリッサが小さく息を呑んだ。
「そんなに」
「買い取り額を基準にしています。思い出や希少性については、証明できないものを加えていません」
「母からもらった品もあります」
「はい」
「それでも、買い取り額だけなのですね」
エルネスタは少し迷った。
「思い出の価値は、あります」
「では」
「ですが、ご主人へ金銭として請求するには、客観的な基準が必要です」
クラリッサは目を伏せた。
「そうですね」
「売ったことを後悔していらっしゃいますか?」
「少し」
「屋根を直さなければよかったと?」
「それは思いません」
即答だった。
「でしたら、思い出までご主人へ渡したことにはしないでください」
クラリッサが顔を上げる。
「品物は戻りません。ですが、それを大切にしていたことまで、あの家のものにはなりません」
言い終わってから、エルネスタは少し口をつぐんだ。
また、余計なことを言ったかもしれない。
サロメなら、数字だけを話しただろう。
「ありがとうございます」
クラリッサはそう言って、少し笑った。
サロメはカウンターの奥で、何も聞いていないふりをしていた。
「次に、屋敷および領地の管理業務です」
エルネスタは比較表を1枚出した。
「家政管理者、領地事務補佐、対外書簡の作成、使用人の採用と調整。重複する時間を差し引き、6年間で金貨1,180枚」
「1,180」
クラリッサが繰り返した。
「食事と住居など、クラリッサ様ご自身が伯爵家から受けた利益も差し引いています」
「ずいぶん引いたのですか?」
「かなり」
サロメが答えた。
エルネスタが振り返る。
「店主」
「不服そうな顔をしていましたから」
「顔には出していません」
「出ています」
レオンも、少し離れた机で書類を読んだまま言った。
「法務官殿まで」
「計算は妥当です」
「聞いていません」
「そうですか」
彼は再び書類へ目を落とした。
クラリッサが、2人を見て少し笑う。
エルネスタは咳払いをした。
「介助労働については、金貨360枚です」
「義母の薬のことですか?」
「通院への同行、服薬管理、食事制限の調整を含みます」
「家族の世話でも?」
「家族だからといって、時間が消えるわけではありません」
エルネスタは、今度は落ち着いて言った。
「ただし、すべてを専門の介護人と同額にはしていません。クラリッサ様がほかの業務と並行して行っていたこと、義母上ご本人も一定の身の回りのことができることを考慮しています」
「はい」
「最後に、婚姻無効を主張されたことで既に生じている手続き上の負担と、6年間の婚姻実績を否定されたことによる名誉上の損害です」
エルネスタは、離縁と婚姻無効それぞれの場合の権利関係を整理した資料を示した。
「現在確認できる範囲で、金貨600枚相当です」
「それは、何の値段ですか?」
「クラリッサ様が伯爵夫人として行った仕事を、存在しなかったことにしないための補償です」
「私の名誉に、金貨600枚の値段が?」
「違います」
エルネスタは首を横に振った。
「名誉そのものの値段ではありません。根拠の薄い無効主張へ対応するために既に必要となった手続きと、6年間を存在しなかったものとして扱われたことで生じた不利益を、現在の制度で補える範囲に直した金額です」
「名誉は、全部お金にはならないのですね」
「なりません」
「そうですか」
クラリッサは、なぜか少し安心したようだった。
「全部、金貨に変えられてしまったら、少し嫌だと思っていました」
「私もです」
エルネスタは帳簿の数字を合計した。
私有財産、328枚。
屋敷と領地の管理、1180枚。
介助労働、360枚。
婚姻無効主張への対応と名誉上の損害、600枚。
「合計、金貨2,468枚です」
銀秤が、資料同士の大きな不一致がないことを示すように、短く鳴った。
ちりん。
クラリッサは目の前の数字を見つめていた。
「多いでしょうか」
エルネスタが尋ねる。
「分かりません」
クラリッサは正直に答えた。
「6年間に値段がつくなんて、考えたこともありませんでした」
「これは6年間そのものの値段ではありません」
レオンが言った。
「証明できた損害の合計です」
「そうでしたね」
クラリッサはうなずく。
「では、証明できなかったものは?」
誰もすぐには答えなかった。
義母と一緒に飲んだ茶。
使用人へかけた言葉。
夫の帰りを待った夜。
妻として見てもらえるかもしれないと、少しだけ期待した時間。
そのようなものは、帳簿には残らない。
「残ります」
エルネスタが言った。
「どこに?」
「クラリッサ様の中に」
「それでは、何の役にも立たないかもしれません」
「そうかもしれません」
無理に慰めることはできなかった。
「でも、なかったことにはなりません」
クラリッサはしばらく黙っていた。
やがて、小さくうなずいた。




