第14話 何もしていない?
午後の光が長い廊下の奥まで届かず、伯爵邸には薄い影が溜まっていた。
人が足りないのではない。
今まで誰が埋めていたのか、誰も知らなかっただけだった。
「まず、薬のことからでよろしいですか」
エルネスタが尋ねると、老婦人はうなずいた。
「ええ。私は3年前に倒れてから、毎日5種類の薬を飲んでいます」
「5種類」
「朝が3つ、昼が1つ、夜が2つです」
「それでは6つでは?」
「1つは朝と夜に飲むのです」
エルネスタは手帳へ書き込みながら、少し考えた。
「間違えたことは?」
「クラリッサが用意していた間は、1度も」
「今朝は?」
「2つ足りませんでした」
伯爵が顔をしかめる。
「だから、それは侍女が不慣れなだけです」
「不慣れな者へ、引き継ぎもせず任せたのは誰ですか」
老婦人が言うと、伯爵は黙った。
エルネスタは、老婦人が薬を飲み始めた時期と、医師の名を確認した。
通院は月に2回。
冬場は体調が悪化しやすく、週に1度になることもあった。
クラリッサは診察へ付き添い、医師の説明を書き留め、薬の残量まで管理していた。
「記録は残っていますか?」
「私の寝室に、小さな帳面があるはずです」
侍女が取りに行き、ほどなくして薄緑色の帳面を持って戻ってきた。
頁には、日付、体温、食事量、服薬時間が記されている。
筆跡は、胡桃の箱から見つかった紙と同じだった。
「医師へ確認できます」
レオンが言った。
「診療記録と一致すれば、継続して介助を行っていた証拠になるでしょう」
「介助?」
伯爵が眉を寄せる。
「母は寝たきりではありません」
「寝たきりでなければ、介助ではないのですか?」
エルネスタが尋ねる。
「薬を用意し、医師へ同行しただけでしょう」
「月に2回、3年間です」
「家族なら、するものでは?」
その言葉を聞いて、老婦人の指が杖の柄を強く握った。
「あなたは何回、私を医師へ連れていったのです」
「私は領地の仕事があります」
「クラリッサにも、屋敷の仕事があったでしょう」
「それは、あれが好きで」
「また、それですか」
老婦人は疲れたように息を吐いた。
「あなたは子どものころから、見たくないものを全部、誰かの好きなことにしてしまうのね」
「母上」
「家庭教師があなたの作文を直すのも、仕事が好きだから。使用人が夜中に酔ったあなたを運ぶのも、世話好きだから。クラリッサが屋敷を整えるのも、好きだから」
伯爵の口元が固くなる。
「今、その話は関係ありません」
「ええ。そう言うと思いました」
老婦人はエルネスタへ向き直った。
「続けてください」
「では、食事について伺います」
医師から塩分を控えるよう指示されたあと、クラリッサは料理長と献立を作り直していた。
夫の好物を外さず、義弟の乳製品を避け、老婦人の食事だけ味が薄くなりすぎないよう、香草を取り寄せた。
その香草を扱う商会の名も、老婦人は覚えていた。
「食事の記録も、台所に残っていると思います」
「料理長へ話を聞けますか?」
「もちろんです」
呼ばれた料理長は、白髪の混じった大柄な男だった。
初めは戸惑っていたが、クラリッサの仕事について尋ねられると、次々に話し始めた。
「奥様がいらしてから、食材の廃棄が減りました」
「どれくらいですか?」
「以前は月に金貨2枚ほど。最近は銀貨30枚前後です」
「記録は?」
「台所帳があります」
料理長はさらに、冬季の保存食、客の食物アレルギー、祝宴の予算について話した。
クラリッサは料理を作ってはいない。
けれど、誰に何を出し、いくら使い、何を残すかを決めていた。
「それも妻なら普通だ」
伯爵が言った。
料理長が振り返った。
「普通かどうかは存じませんが、奥様がいなくなって3日で、食費が銀貨20枚増えました」
「なぜだ」
「旦那様が昨日、急に夕食会を開かれたからです」
「客が来たのだから仕方ないだろう」
「人数を教えていただけなかったので、20人分用意しました。実際には11人でした」
「余った物は使用人が食べればよい」
「魚料理を9人分ですか?」
伯爵は黙った。
料理長は一礼し、台所帳を取りに戻った。
「皆、私を責めたいようですね」
伯爵が言った。
「責めるための調査ではありません」
レオンが答える。
「では、何のためだ」
「何が行われていたのかを確認するためです」
「確認したところで、離縁は変わらない」
「変える必要はないでしょう」
エルネスタが言った。
伯爵が彼女を見る。
「クラリッサ様が離縁を望まないと、決まったわけではありません」
「6年間も妻だったのだぞ」
「それは、戻りたい理由になりますか?」
「では、なぜこんなことを調べている」
「終わらせるためです」
言ってから、エルネスタは少し違うと思った。
「……正しく、終わらせるためです」
伯爵は鼻で笑った。
「結局は金だ」
「金だけで済むなら、むしろ簡単です」
エルネスタの返事に、レオンがわずかに顔を向けた。
老婦人は何も言わず、膝の上の手を見つめている。




