第15話 妻でなければ、いくらですか
老婦人の部屋は薬草の匂いが濃かった。
窓際には季節ごとの薬瓶が並び、6年という時間が、日付の書かれた小さな札になって残っていた。
その日の調査は、夕方まで続いた。
家令の帳簿。
台所帳。
使用人の雇用記録。
屋敷の修繕記録。
招待客の名簿。
クラリッサの字は、至るところに残っていた。
領地から届いた苦情へ返答案を書き、病気になった使用人の代わりを手配し、屋根の雨漏りを直し、価格の上がった薪を別の商会から仕入れている。
公式な署名は、ほとんど伯爵の名だった。
「こちらの返書も、クラリッサ様が?」
エルネスタが1通の書状を示すと、家令がうなずいた。
「下書きは奥様です。旦那様に確認いただき、清書しておりました」
「内容は?」
「領地内の水路を巡る争いです」
「解決したのですか?」
「ええ。奥様が双方の代表を屋敷へ招き、使用日を分ける案を」
「私は署名をした」
伯爵が言った。
「はい」
家令はうなずいた。
「最終的にお決めになったのは、旦那様です」
「なら、私の仕事だろう」
家令は少し迷った。
「奥様が3週間、双方の話を聞いておられました」
「それは、あれが勝手に」
伯爵はそこまで言って、口を閉じた。
同じ言葉を繰り返していることに、ようやく気づいたらしい。
エルネスタは帳簿を閉じた。
「本日は、ここまでにしましょう」
「もう帰るのか」
伯爵の声には、わずかな安堵があった。
「証拠を整理したうえで、改めてお話を伺います」
「まだ何を聞く?」
「クラリッサ様との結婚についてです」
「白い結婚だと話したはずだ」
「なぜ、白い結婚になったのですか?」
伯爵の目が細くなる。
「鑑定に必要か?」
「必要かどうかを判断するために伺います」
「答えたくない」
「承知しました」
エルネスタがすぐに引くと、伯爵は意外そうな顔をした。
「聞かないのか」
「無理に話させる権限はありません」
「なら、最初から尋ねるな」
「話したくないことがあると分かりました」
「それを記録するのか?」
「答えなかったこと自体を、不利な証拠にはしません」
エルネスタは手帳を閉じた。
「ただ、クラリッサ様にも同じ質問をします」
伯爵は何も言わなかった。
*
屋敷を出たころには、外はすっかり暗くなっていた。
貸し馬車の中で、エルネスタは膝の上へ帳簿の写しを積み上げた。
クルミは書類の上で丸くなり、尻尾だけを動かしている。
「踏まないでくださいね」
「書類の上にリスを置かないでください」
向かいに座ったレオンが言う。
「置いたのではありません。乗りました」
「下ろせばよいでしょう」
エルネスタが手を伸ばすと、クルミは書類の一番下へ潜り込んだ。
「嫌だそうです」
「鳴いてもいませんが」
「顔に出ています」
「リスの顔が分かるのですか?」
「法務官殿よりは」
「先日も聞きました」
レオンは書類の端を持ち上げ、クルミを慎重に引き出した。
クルミは抗議するように鳴き、彼の袖を駆け上がった。
「キュッ」
「また私ですか」
「好かれているのでは?」
「踏み台にされています」
レオンはクルミをエルネスタへ返した。
「今日の証言を、どう扱うつもりです?」
「薬の管理は、介助労働として。屋敷の運営は、家政管理者の給金を基準に算定します」
「すべてを給金換算するのですか?」
「問題がありますか?」
「クラリッサ夫人は、雇用契約を結んでいない」
「妻だからです」
「そうです」
「では、無料になりますか?」
「そうは言っていません」
「先ほどから、そう聞こえます」
レオンは眼鏡を外し、眉間を指で押さえた。
「あなたは、こちらが最後まで話す前に怒る癖がありますね」
「怒っていません」
「そうですか」
「少ししか」
「やはり怒っている」
エルネスタは窓の外を見た。
「妻でなければ、家政管理者を雇わなければなりませんでした」
「ええ」
「介護人も。秘書も。場合によっては、領地管理の補佐も」
「すべて1人へ任せる雇用主はいないでしょうね」
「なら、その合計を」
「そのまま6年分請求することはできません」
エルネスタはレオンを見た。
「なぜです?」
「家で暮らし、食事を取り、使用人を使った利益を、クラリッサ夫人自身も受けているからです」
「それは妻として当然の待遇でしょう」
「当然という言葉を理由に、計算から外してはいけないと、あなたが言ったのでは?」
言い返せなかった。
クラリッサは労働を提供していた。
同時に、伯爵家で暮らす利益も受けている。
何もかもを被害として数えれば、今度は事実から離れてしまう。
「では、どうすれば」
「分けます」
レオンは指を1本立てた。
「夫婦として互いに負担する範囲」
2本目。
「伯爵家の運営のために行った業務」
3本目。
「クラリッサ夫人の私有財産から支出した金額」
4本目を立てようとして、少し迷った。
「それから」
「何ですか?」
「本人が、何を望んでいるか」
「それは金額とは別です」
「別だから、先に確かめるべきでしょう」
エルネスタは、クルミの背を撫でた。
「もし、戻りたいと言ったら?」
「鑑定結果を変えますか?」
「変えません」
「なら、聞けばよい」
「簡単におっしゃいますね」
「あなたも今日、伯爵へ同じようなことを聞いたでしょう」
「依頼人と相手方は違います」
「そうですね」
レオンは窓の外へ目を向けた。
「依頼人のほうが、難しい」




