第13話 好きでやったこと
ヴァルナー伯爵邸の門の先にある庭は、広いのに妙に目が行き届いていなかった。
咲き終えた花が残り、季節外れの敷物が、誰かの不在を声もなく示していた。
「そんなに?」
「ご存じなかったのですね」
「だから、家計は家令に任せていたと言っている」
「クラリッサ様は?」
「妻は、好きで口を出していただけです」
その言葉に、エルネスタのペンが止まった。
「好きで?」
「あれは昔から、何でも自分でやりたがるところがありました。頼んでもいないのに帳簿を見て、使用人の相談に乗り、母の薬まで管理する」
「お困りでしたか?」
「そうではありませんが」
「やめてほしいとお伝えになったことは?」
伯爵は答えなかった。
「クラリッサ様が何かをなさるたび、不要だとお断りになったのでしょうか」
「妻なのだから、家のことをするのは普通でしょう」
「好きでやったのですか。それとも、妻だから当然だったのですか?」
「どちらでも同じではないですか」
「違います」
思わず、強い声が出た。
伯爵がエルネスタを見る。
「違います。好きで始めたことでも、誰かが必要とし、継続して利益を受けていたのなら、なかったことにはできません」
「あなた自身の話をしているのですか?」
部屋の空気が止まった。
レオンが伯爵へ視線を向ける。
伯爵は口元を少し歪めた。
「王太子殿下に捨てられた令嬢が、今度は他人の夫婦関係へ口を出す。王都では、ずいぶん評判ですよ」
エルネスタの指先が冷たくなった。
言われると思っていた。
驚くほどのことではない。
それでも、痛くないわけではなかった。
「監査とは関係のない発言です」
レオンが言った。
「彼女の経歴を理由に、調査内容を否定するのであれば、その発言自体は記録します」
「あなたは商会を監査する側では?」
「そうです」
「ならば、彼女が私怨で動いている可能性も調べるべきでしょう」
「確認しています」
レオンは淡々と答えた。
「そのうえで、今の質問には資料上の根拠があると判断しています」
エルネスタはレオンを見た。
彼はこちらを見なかった。
「夫人がこの家で行った労働を、あなたは『好きでやった』と説明した」
レオンが続ける。
「一方で、家のことをするのは妻として当然とも述べた。都合によって説明を変えています」
「何が言いたい」
「報酬を支払わない理由として『妻だから』を使い、離縁時に価値を認めない理由として『勝手にやった』を使うことはできません」
伯爵の頬が引きつった。
「妻に給金を払えと?」
「今は結論を述べていません」
「結局、金が欲しいだけだろう」
「クラリッサ様は、まだ請求額を決めていません」
エルネスタが言った。
「離縁そのものを受け入れるかどうかも」
「受け入れない?」
伯爵の声が低くなる。
「今さら、あの家へ戻るつもりなのか」
「戻りたいとはおっしゃっていません」
「なら、何を望んでいる」
「それを伺うために、私たちがいます」
「本人すら分からないものを、どう鑑定する」
「分からないから、話を聞くのです」
伯爵は、いら立ったように立ち上がった。
「話なら、6年間、いくらでもできた」
「なさいましたか?」
「何?」
「クラリッサ様と、6年間のうち1度でも、お2人の結婚について話し合いましたか」
「白い結婚であることは、最初から互いに承知していた」
「屋敷を管理してほしいと?」
「妻なら当然だ」
「持参金を領地へ使ってよいと?」
「夫婦の財産だろう」
「新しい方と結婚すると決めたとき、クラリッサ様が6年間行ったことについては?」
「何もしていない」
伯爵は言い切った。
その直後、応接室の扉が開いた。
「何もしていない?」
老いた女性の声だった。
杖をついた婦人が、侍女の支えを借りて立っている。
「母上」
伯爵の顔色が変わった。
ヴァルナー伯爵の母親なのだろう。
クラリッサが毎朝、薬を用意していた女性。
老婦人は息子を見ず、エルネスタたちへ頭を下げた。
「失礼いたしました。廊下まで声が聞こえたものですから」
「お部屋へお戻りください」
「あなたは黙っていなさい」
伯爵は口を閉じた。
「クラリッサは、今どこにいるのです」
「ご実家です」
エルネスタが答える。
「そう」
老婦人は目を閉じた。
「薬の時間を間違えたのは、あの子がいなくなったからなのね」
「侍女が不慣れなだけです」
「料理が塩辛いのも?」
「料理長へ言ってください」
「冬の薪が届かないのも?」
伯爵が黙った。
「昨日の夕食会で、隣国の商人を席から外してしまったのも?」
「それは偶然です」
「偶然が、3日でいくつ重なるのですか」
老婦人は、部屋の花瓶へ目を向けた。
枯れかけた花が挿してある。
「花も替わっていない」
「そのようなことまで、クラリッサがしていたと?」
伯爵の声には、本気の驚きがあった。
老婦人は息子を見た。
「あなた、本当に何も知らないのね」
伯爵は何も答えなかった。
「だけど、それは私もです」
老婦人が言った。
「薬を用意してくれるのも、食事を気遣うのも、あの子がすべてやってくれていました」
その声は、伯爵を責めるものではなかった。
自分自身へ向けられている。
「いつの間にか当たり前になっていて、私は、あの子にきちんと礼を言えていませんでした」
エルネスタは手帳の上にペンを置いた。
ここで老婦人が証言したからといって、クラリッサの6年間がすべて証明されるわけではない。
けれど、1つだけ、はっきりした。
クラリッサが何もしていなかったのではない。
誰も数えようとしなかったのだ。
「奥様」
エルネスタは老婦人へ向き直った。
「クラリッサ様がこの家でなさっていたことを、覚えている範囲でお話しいただけますか」
「ええ」
「長くなるかもしれません」
「6年ですもの」
老婦人は、疲れたように笑った。
「短く済むほうがおかしいでしょう」
エルネスタは新しい頁を開いた。
レオンも記録用紙を取り出す。
伯爵だけが、立ったまま動かなかった。
自分の屋敷の中で、初めて聞く話が始まろうとしていた。




