第11話 クルミ採用
夕暮れの屋敷には、持ち帰った紙束と、小さな爪が机を引っかく音が加わった。
クラリッサがうつむく。
エルネスタは反射的に言い返しそうになったが、飲み込んだ。
弱いことと、存在しないことは違う。
そのことを、レオンも分かっているはずだ。
「ですが」
レオンは紙を揃えた。
「日付、金額、支払先が記載されています。領地帳簿、商人の記録、宝石商の買い取り台帳と一致すれば、証拠になります」
クラリッサが顔を上げた。
「調べられるのですか?」
「調べます。必要な照会は、クラリッサ様側の同意と適切な手続きを取ります」
「法務官殿が?」
「監査対象に、持参金の不適切な流用が含まれる可能性が出ました。監査院の権限が及ばない部分は、代理人を通じて確認します」
「不正と決まったわけではないでしょう」
エルネスタが言う。
「ええ。だから調べる」
レオンは視線を落としたまま答えた。
「決まっていないことを、決まったことにしないために」
エルネスタは何も言わなかった。
馬車の中で聞いた言葉より、今の言葉のほうが少しだけ、彼という人間を分からせた。
クラリッサは、紙の束を胸元へ抱いた。
「夫は、これも返してきたのですね」
「価値がないと思ったのかもしれません」
エルネスタが言う。
「ただの古い紙だと」
掌の上で、針尾リスが突然顔を上げた。
黒い尾の先が、左右へ大きく揺れる。
そして、クラリッサが抱えている紙へ向かって、短く鳴いた。
「キュッ」
3人が小さな動物を見る。
「どうしたのでしょう」
「胡桃が欲しいのでは?」
レオンが言う。
針尾リスは再び鳴いた。
今度は紙へ飛び移ろうとして、エルネスタの袖をよじ登る。
「こら、駄目です」
慌てて抱き留めると、黒い尾が秤の針のように激しく揺れた。
リスがなにに反応したのかも分からない。
証拠として認められるかどうかは、これから調べる。
けれど、この紙には、クラリッサが1人で抱えてきた6年間が残っている。
夫が返した17箱の中で、最も価値があるものは、銀食器でも宝石でもなかったのかもしれない。
「法務官殿」
「何です?」
「予定を変更しましょう」
「どのように?」
「残りの箱を確認したあと、宝石商へ行きます」
「今日は持参品の確認だけの予定です」
「領地の帳簿も見なければ」
「資料提出には手続きが必要です」
「では、その手続きを」
「今から?」
「早いほうがよいでしょう」
レオンは、少しの間エルネスタを見た。
「あなたは、いつもそうなのですか」
「何がです?」
「1つ見つけるたびに、次へ行こうとする」
「見つけたのに、放っておくのですか?」
「放っておくとは言っていない」
「では、行きましょう」
「まだ7番の箱です」
部屋には、未開封の箱が10個残っていた。
エルネスタは黙った。
「まず、ここを終わらせます」
「……はい」
レオンは記録用紙へ視線を戻した。
「それから、宝石商です」
エルネスタは顔を上げた。
「行くのですか?」
「行かないとは言っていない」
「最初から、そうおっしゃってください」
「あなたが最後まで聞かないからでしょう」
それは、少しだけ正しかった。
エルネスタは反論せず、8番の箱へ手をかけた。
掌の針尾リスが、かじりかけの胡桃を落とす。
床を転がった胡桃は、レオンの靴へぶつかって止まった。
レオンはそれを拾い、木箱へ戻した。
「これは、どうします?」
「連れて帰ります」
「即答ですか」
「箱に戻せと?」
「森へ返すべきでは」
「どこの森から来たか分かりません」
「店主に怒られますよ」
エルネスタは、針尾リスの黒い尾を見た。
「名前をつければ、怒りにくくなると思います」
「逆では?」
「クルミ」
針尾リスが顔を上げた。
「今、反応しました」
「胡桃を見たのでしょう」
「クルミ」
「キュ」
エルネスタは満足してうなずいた。
「決まりです」
レオンは、諦めたように次の箱の蓋を開けた。
その日の夕方、《未練商会》へ戻ったエルネスタは、サロメに言った。
「持参品の箱から、証拠とリスが見つかりました」
サロメは紅茶の杯を置いた。
「一緒に説明しないでください」
「どちらから聞きますか?」
「証拠から」
「クルミからではなく?」
「その名前、もう決定なのですか」
エルネスタの肩で、銀灰色の小さな生き物が胡桃をかじっている。
サロメはしばらく眺めたあと、深く息を吐いた。
「針尾リスの中には、長いあいだ強い感情が染みついた物へ反応する個体がいます」
「では、さきほどの紙に」
「何かが残っていたのでしょう。ただし、愛情か、怒りか、誰の感情かまでは分かりません。鑑定の証拠にもなりません」
「はい」
「そこは絶対に混同しないこと」
「承知しました」
「それと、飼育費は給与から引きます」
「従業員ではなく、店の備品ということには」
「なりません」
「では、店の警備を」
「その大きさで?」
「法務官殿を踏み台にしました」
「採用しましょう」
レオンが入口で眉を寄せた。
「今の話のどこに、警備能力がありました?」
「法務官殿へ遠慮しない点です」
クルミが短く鳴いた。
その日から、《未練商会》には1人と1匹、面倒なものが増えた。




