第3話 「ふたつの心と、ひとつの薔薇」
「ただいまー……」
玄関の引き戸を、からり、と、あけたとき。
ふわっと、お出汁の、いい匂いが、廊下のおくから、流れてきた。
「あ、おかえり、すずちゃん」
エプロンで手を拭きながら出てきたお母さんは、わたしの顔を見るなり、ぴたり、と、足を止めた。
「……すずちゃん?」
「な、なに」
「あんた、なんか、顔色わるいよ」
ぎく、と、心臓が、跳ねた。
「えっ、そ、そう? ぜんぜん、そんなことないよ。むしろ、絶好調だよ」
「絶好調って、いまどき言わないでしょそんなこと」
くす、とお母さんは、笑って。
それから、ふっと、心配そうに、わたしの頬に、てのひらを、あてた。
おかあさんの手は、いつも、あったかい。
ちょっとだけ、しょうゆの匂いがして、ちょっとだけ、洗剤の匂いがして。
そして、たぶん、すこしだけ──さっき、わたしの体に触れたときの、ヴィオレッタの侍女さんの手とは、ぜんぜん、ちがう、あったかさ。
「……ねえ、すずちゃん」
「うん?」
「無理は、しないでね」
ぴたり、と、息が、止まった。
「──最近のあんた、なんか、こう。すこしだけ、遠くを、見てるみたいで」
「……」
「お母さん、しろうとだけど、それでも、いちおう、十六年もすずちゃんのこと見てるからね」
そう言って、おかあさんは、ふふ、と、いつものように、笑った。
笑ってくれた、のに。
なぜだろう。
その瞬間、わたしの、胸の奥のほうが、ぐっと、しめつけられて。
「……うん。ありがと」
それだけ、言うのが、せいいっぱい、だった。
夕飯は、肉じゃがと、すこしだけ焦げた卵焼きと、それから、わたしの大好きな、ほうれん草のおひたしだった。
おかあさんは、テレビの、夕方のニュースを見ながら、なんでもないことを、ぽつぽつと、話してくれた。
お隣の犬のレオくんが、また脱走したこと。
商店街の魚屋さんで、お刺身が半額だったこと。
明日の天気は、晴れ、らしいこと。
ぜんぶ、ぜんぶ、ほんとうに、なんでもないことばかりで。
なのに、わたしは、その、ひと言ひと言が。
──あの、絹のシーツのうえで、ひとりでいる女の子の世界には、ぜったいに存在しないものなのだと、思ったら。
──箸が、ふと、止まりそうになった。
「すずちゃん、ごちそうさま、する?」
「あ……うん。ごちそうさまでした」
お皿を、流しに運ぼうとしたわたしの背中に、おかあさんの声が、ふわり、と、追いかけてきた。
「すずちゃん」
「うん?」
「もし、なにか、しんどいことがあったら」
ふりかえる。
おかあさんは、テレビのほうを向いたまま、こちらを、見ては、いなかった。
「ぜんぶ、お話してね。──むずかしかったら、半分でも、いいから」
「……うん」
「お母さんね、すずちゃんの半分のお話、ぜんぶ、聞ける耳、持ってるからね」
「……うん」
声が、すこしだけ、ふるえた。
ばれていないように、わたしは、お皿を、しゃこしゃこ、洗った。
水道のお水が、てのひらに、ひんやりと、つめたい。
その、つめたさが、なぜか、あの──ヴィオレッタの、ほっぺたの、つめたさに、すこしだけ、似ていた。
自分の部屋に、戻る。
ぱた、んと、ドアを閉めて。
ぺたり、と、ベッドに、座り込む。
ふぅ──と、長い、長い、息が、こぼれた。
机の上の、文庫本に、ふと、視線を、落とす。
あれから、いちども、めくっていない、はずだった。
なのに。
──開いて、いた。
しおりを挟んでいたページとは、ぜんぜん、ちがう、ちょうどまんなかあたりで、その本は、しずかに、ひらかれていた。
「……あれ」
ふらり、と、立ち上がって、机の前に、よる。
そして、ページを、覗き込んだ瞬間。
ぴたり、と、息が、止まった。
そこには。
印刷された活字の、すぐとなりに。
見たこともない、流麗な文字で。
たった、ひとこと。
『……ありがとう』
そう、書かれていた。
「……うそ」
声が、ふるえる。
その筆跡は。
たぶん。
──たぶん、わたしが、知らないわけが、ない、筆跡だった。
なぜなら。
ついさっき、夢のような異世界で、わたしの──ヴィオレッタの体の指先が、慣れた手つきで、便箋にすうっと走らせていた、その、文字、と。
ぴたりと、おなじ、形を、していたから。
「……ヴィオレッタ」
わたしは、震える指で、その文字に、そっと、触れた。
すうっと、指のはらに、ほんの、ほんのすこしだけ。
つめたい、絹のような、感触が、走った気がした。
──彼女、いるんだ。
ちゃんと、わたしのなかに、いるんだ。
そして。
ちゃんと、わたしの行動を、見ていて。
ちゃんと、わたしのことばを、聴いていて。
そして、それを。
──"ありがとう"と、思ってくれた、んだ。
ぽたり、と。
文庫本のページに、ひと粒、しずくが、落ちた。
それが、自分の涙だと気づくのに、わたしは、すこしだけ、時間がかかった。
「……ばかみたい」
ぐしっ、と、制服の袖で、目をこする。
「会ったことも、ないのに」
「会ったことも、ないのにさ」
「なんで、こんなに、泣けてくるんだろうね」
文庫本の、白いページ、流麗な、彼女の文字。
そこに、わたしは、机の引き出しから取り出したシャープペンを、そっと、握って。
ふるえる手で、こう、書きこんだ。
『どういたしまして。──また、明日ね、ヴィオレッタ』
書きおわったあと。
ふっと、その流麗な文字の、すぐ下のあたりが。
ぽぅ、と、ひと呼吸だけ、銀色に、光った気が、した。
──まるで、彼女が、ちいさくちいさく、うなずいてくれた、みたいに。
そして、よくあさ。
ぴ、ぴ、ぴ、ぴ──。
目覚ましのアラームを止めたわたしの、左の手のひらの、薔薇の刻印。
──そこには、すでに、こう、浮かんで、いた。
『出勤時間まで、あと、八時間五十分』 『次回任務地:グラディース侯爵邸/お見舞い茶会』
「……」
しばし、沈黙。
「……グラディース侯爵邸……?」
それって、たしか。
昨日、レオハルト殿下が、口にしていた、名前で。
そして、ヴィオレッタが、階段で「踏んだ」と、訴えている張本人の、ご令嬢の、名前で。
「……っ、ええっ!?」
朝のトーストを、危うく、落っことすところだった。
* * *
学校に着いて、教室の自分の席に、ぱたりとつっぷしたわたしの肩を。
つん、と、つついてきたのは、三浦さんだった。
「ねえ、すずね」
「ふぁい……」
「あんた、なんか、最近、すっごい、本気で恋でもしてる顔してる」
「ぶふっ」
思わず、ぜんぶ、噴き出すところだった。
「な、なに、それ」
「だってさあ。教科書の、おなじページばっかり、十分くらい見つめてたよ、いま」
「えっ……」
「ふふ、図星なんだ?」
三浦さんは、にやにやと、わたしの顔を、覗き込んでくる。
その、なんでもない、ふつうの、女子高生のじゃれあいが。
なんだか、不意打ちみたいに、わたしの胸を、ぎゅっと、あったかくした。
「……ねえ、三浦さん」
「ん?」
「もし、さ」
わたしは、頬杖をついたまま、ぽつ、と、ことばを、こぼした。
「もしも、どうしても、きらわれちゃってる女の子と、なかよくなりたかったら」
「うん」
「最初に、なんて、声を、かけたら、いいと思う?」
三浦さんは、目を、ぱちくり、とさせて。
それから、ふふ、と、すこしだけ、おとなびた笑みを、浮かべた。
「そんなの、決まってるじゃん」
「え」
「『あなたのこと、もっと知りたいの』──だよ」
きらり、と。
ペンケースのうえに、四月の朝の光が、ひと粒、はじけた。
「だってさ、いちばんつたえたいのって、ぜったい、それでしょ?」
──ああ。
そっか。
そうかもしれない。
わたしは、こくり、と、うなずいた。
「ありがと、三浦さん」
「なに、わたしのアドバイスで、恋、うまくいきそう?」
「……うん。たぶんね」
恋、ではないけれど。
──きっと、もっと、たいせつなものに、なりそうな、気が、する。
放課後の、ベンチ。
四月の、夕方の、橙色の風。
わたしは、左の手のひらに、息を、ふっと、ふきかけて。
それから、ゆっくりと、まぶたを、閉じた。
「いってきます」
──いいえ。
「ただいま、ね、ヴィオレッタ」
ふわり、と、世界が、溶けて。
ぱち、と、まぶたを、ひらいた、そこは。
きらきらと、白い、お庭、だった。
陽射しを、たっぷり、吸い込んだ、白い大理石のテラス。
その上に、レースの白いクロスをかけた、まあるいテーブル。
ティーカップの、しろい湯気が、ふわり、と、立ち昇る。
紅茶と、焼き菓子と、それから──薔薇の花の、甘い、香り。
わたしの──ヴィオレッタの体は、すでに、まっすぐと、椅子に、座っていた。
向かいの席に、ひとり。
「──ようやく、お目覚めになりましたのね、ヴィオレッタ様?」
ふふっ、と、はじけるみたいな、ちいさな笑い声が、した。
息を、のんだ。
向かいに、座っていたのは。
きらきらした、ふわふわの、たまご色の、巻き毛。
ぱっちりと大きな、はちみつ色の、瞳。
ぷっくりとした、バラの花びらみたいな、くちびる。
そして──
その肩から、片腕にかけて、そっと、白い包帯が、巻かれていた、その、女の子。
「グラディース、侯爵令嬢……」
口が、勝手に、その名を、紡いだ。
ヴィオレッタの、心が、すぅっと、つめたくなったのが、わかった。
そう、この子だ。
階段で、「踏まれた」、と、訴えた、ご令嬢。
エミリア・グラディース。
──ヴィオレッタを、断罪へと、追いやろうとしている、その、当人。
「ふふ。ご招待、してさしあげましたのに、なんだか、ぼうっと、なさっておいでで」
エミリア嬢は、ふわふわと笑いながら、ティーカップを、傾ける。
その指の、ちいさく、ほっそりとして、白いこと。
その所作の、優雅で、無垢で、そして、
──完璧なほど、計算されつくしていること。
『──気をつけて、すずねちゃん』
ふっと、頭の奥で、シュナイダーさんの声が、した。
『この子はね、君が思っているよりも、ずっと、ずっと、頭がいい』
「……はい」
『そして、君が思っているよりも、ずっと、ずっと、傷ついている』
ぴくり、と、わたしの心臓が、跳ねた。
傷ついて、いる?
エミリアさまの、ふわふわとした巻き毛のおくの、はちみつ色の瞳が。
ふっと、ティーカップごしに、わたしを、見据えた。
──ぞくり、と、した。
それは。
それは、十五や十六の、女の子の、目では、なかった。
もっと、ずっと、ずっと、深い、ところで。
なにか、を、こらえている目、だった。
「ヴィオレッタ様」
エミリア嬢は、ふっと、声の調子を、おとした。
「……単刀直入に、おうかがいいたしますわ」
ことり、と。
ティーカップが、ソーサーに、戻される、ちいさな音。
「あなた、本当に、わたくしを、突き落としましたの?」
「……」
「あの、夜会の、階段で」
ぴたり、と、空気が、こおる。
──それは、とても、奇妙な、問いだった。
だって。
「踏まれた」と、訴えていたのは、彼女、ではなかったのか。
なのに、なぜ、いま、彼女、自身が。
──「本当に、突き落とした、のか」と、たずねるのか。
息を、ひとつ、すって。
わたしは、ヴィオレッタの口を、わたしの意思で、ひらいた。
「……エミリアさま」
「はい」
「ひとつ、お訊ねしてもよろしくて?」
「ええ」
「あなた、ご自身は、わたくしに、踏まれた、と、思っていらっしゃるの?」
その瞬間、
──エミリア嬢の、はちみつ色の瞳が。
ぴくり、と、揺れた。
「……それは」
「ご自分の目で、ご自分の足を、ご覧に、なりまして?」
「……」
「それとも、どなたかが、あなたに、そう、申し上げまして?」
ことり、と。
エミリア嬢の指から、こんかいは、ティーソーサーごと、ちいさな音が、立った。
「……いいえ」
ふぁ、と。
彼女のくちびるが、はじめて、強がりと計算の、その奥にある、ほんとうの、十六歳の少女の声で、つぶやいた。
「わたくし、自分の足元なんて、見ては、おりませんでしたわ」
「では」
「──気がついたら、ただ、転がり、落ちて、おりました。それだけ、ですわ」
その声の、しずかなこと。
その声の、ふしぎなくらい、うすい、こと。
わたしは、息を、すぅっと、すった。
そして。
ヴィオレッタの体の、銀の睫毛を、伏せて。
そっと、口にした。
「──エミリアさま」
「はい」
「あなたの、ことを、もっと、知りたい、のです」
ことり、と。
向かいの、エミリア嬢の、はちみつ色の瞳が、おおきく、見開かれた。
「あなたが、どうして、わたくしを、そう、訴えたのか」
「……」
「あなたが、いま、なにを、こわがっておいでなのか」
「……」
「ぜんぶ、ひとつのこらず、わたくしに、お話しいただけないかしら」
すぅっと。
四月の、お庭の、白い陽射しが、わたしと、彼女のあいだを、しずかに、横切る。
エミリア嬢は、しばらく、なにも、言わなかった。
ただ、ぱちぱちと、長い、長いまつげを、何度か、瞬かせて。
それから、こてん、と、首をかしげた。
「……ヴィオレッタ様」
「はい」
「あなた、ほんとうに、あの、ヴィオレッタ様、ですの?」
ぎく、と、した。
「な、なぜ、そんなことを」
「だって」
エミリア嬢は、すぅっと、目を、伏せた。
「ふだんの、あなたなら」
ことり、と、彼女の指が、ティーカップの縁を、なぞる。
「ぜったいに。──ぜったいに、そんな、ことばは、口になさらなかった、はず、ですもの」
その瞬間。
──ぞくり、と。
わたしの背中を、つめたいものが、走った。
『気をつけて、すずねちゃん』
『この子はね、君が思っているよりも、ずっと、ずっと、頭がいい』
シュナイダーさんの声が、頭のなかで、はじけた。
エミリア嬢の、はちみつ色の瞳。
それは、もう、笑って、いなかった。
「ねえ、ヴィオレッタ様」
ふふっ、と、すずやかに、彼女は、笑う。
そして。
ことり、と、ティーカップを、もう一度、ソーサーに、置いて。
すうっと、わたしのほうへ、白い指を、さしのべた。
「あなた、いったい──」
「──なにもの、ですの?」
ぴたり、と、世界が、止まった、気がした。
風が、止まった。
陽射しが、止まった。
紅茶の湯気が、空中で、固まった。
エミリア嬢の、ちいさく、白い指の先が。
すうっと、わたしの──ヴィオレッタの胸元に、ふれそうな、ふれないかの、その距離で。
ぴたり、と、止まった。
そして、その指の先には。
うすい、うすい、銀色の光が。
ぽぅ、と。
わたしの、薔薇の刻印と、おなじ、銀色の光が。
──しずかに、にじんで、いた。
「……っ」
息を、のんだ。
『──さて、お時間です、すずねちゃん』
シュナイダーさんの声が、頭のなかで、響いた。
「ま、まって、シュナイダーさんっ、いま、すごく、まずいところ──」
『つづきは、明日。──ね?』
「ちょ、ちょっと、まっ──!」
ふわり、と、体が、溶ける。
最後に、わたしが見たのは。
エミリア嬢の、ふふっ、と、笑った、その、くちびる。
「──また、明日、ね、ヴィオレッタ様」
そう、彼女が。
ぜんぶ、見透かしたみたいに、ささやいた、その、声、だった。
ぱち、と、まぶたを、ひらく。
図書館の、ベンチ。
ぜぇ、ぜぇ、と。
なぜだか、ぜんぜん、走っていないのに。
息が、ものすごく、あがって、いた。
「……うそ、でしょ」
わたしは、震える手で、文庫本を、取り出した。
しおりを挟んでいた、はずの、ページ。
そこには。
知らない、はずの、流麗な、彼女の文字で。
きょうも、新しく、ことばが、刻まれていた。
ただし。
きょうのそれは。
──ありがとう、では、なかった。
『すずね。』
『あの子に、近づいてはだめ。』
『──あれは、人間ではないわ。』
ぞくり、と。
わたしの、背中の、いちばん深いところを。
つめたいなにかが、するり、と、滑っていった。
文庫本のページのはしっこを、握りしめた、わたしの指の。
すぐとなりで。
──薔薇の刻印が、ぽぅ、と、はじめて。
赤く、にじんでいた。




