第2話 「はじめての出勤、はじめての婚約者」
「柊木さん、柊木さん」
──と、肩を、つん、と突かれて。
わたしは、はっと、顔を上げた。
「あ……、ご、ごめん」
慌てて姿勢を正すと、隣の席の三浦さんが、くすくすと笑いながら、開いたままのノートを指さした。
「板書、五分前から止まってるよ」
「ほ、ほんと?」
ノートに視線を落として、息をのむ。
『二次関数のグラフは、』──そこで、文字が、ぷっつりと、途切れていた。
そのあとに続くはずだった黒板の数式が、いつのまにか、ぜんぶ、消されてしまっている。
「先生、もう次の問題に入っちゃってるよ」
「うっ……」
わたしは、こめかみを押さえて、机に突っ伏したい衝動を、なんとか、こらえた。
だって、しかたない。
しかた、ないんだ。
だって、わたしの左手のひらには、いまも。
──薔薇の刻印が、しずかに、銀色に光っているのだから。
『出勤時間まで、あと、二時間十一分』
文庫本のページが、勝手にめくれて、教科書のあいだに、そっと、その文字を浮かび上がらせる。
四時間目の、世界史の授業中。
外の桜は、もう、半分くらい散ってしまって、教室の窓ガラスに、ひらり、ひらりと、薄紅の影を落としていた。
それを、ぼんやり眺めながら、わたしは、
──ほんとうに、行くんだ。
と、いまさらながら、足の指先がしびれるような実感に、ぐっ、と、お腹のあたりを掴まれていた。
朝、目を覚ましたとき。
ぜんぶ、夢だったらいいな、って、ほんの少しだけ、思った。
子猫を抱きしめたあの感触も、銀の鎌を持った美しい死神も、ぜんぶ、雨の日の白昼夢で。
わたしは、ただの、平凡な高校二年生で。
これから、お母さんが作ってくれた卵焼きと、すこしだけ焦げたウィンナーのお弁当を、いつもみたいに、三浦さんと並んで、屋上で食べる──そんな、なんでもない一日のはずだったって。
そう、思いたかった。
でも。
「柊木すずね」
先生に呼ばれて、はっとして立ち上がる。
「次の問題、解いてみろ」
「は、はい……っ」
教科書を抱えて、教壇のほうへ歩きながら。
わたしは、ちらりと、左の手のひらを、見下ろす。
うすい銀の光が、制服の袖の影で、しずかに、息をしている。
──ああ、ほんとうに、夢じゃ、ないんだ。
そう、覚悟する、しか、なかった。
放課後の、チャイムが鳴った。
きぃん、こぉん、かぁん、こぉん。
その、聞き慣れた音が、今日は、なんだか、いつもよりずっと、遠くのほうで響いている気がした。
「すずね、今日カラオケどう?」
「ごめん、今日はちょっと、用事あって」
「えー、また? 最近つきあい悪いよ?」
「ほんと、ごめんね」
ぱたぱたと、急いで鞄に教科書を押し込んで。
わたしは、誰よりも早く、教室を、飛び出した。
──だって、もし、誰かの目の前で、急に倒れちゃったら。
──だって、もし、ぼんやりしたまま魂が抜けて、変なところにぶつかっちゃったら。
そんなこと、シュナイダーさんは、ひとことも教えてくれなかった。
たぶん、ふつうに、目をつむっていれば、いいんだろう。
たぶん。
たぶん、って。
なんて、頼りない、たぶんなんだろう。
息を切らして、駅前の図書館の、人気のすくないベンチまでたどり着いて。
わたしは、はあ、と、ひとつ、深く、息を吐いた。
ぽけっとから取り出した、あの文庫本を、そっと、ひらく。
『出勤時間まで、あと、三分』
「……はやっ」
思わず、ひとりごちた。
ほんとうに、容赦が、ない。
ベンチに、ふかぶかと、もたれかかる。
四月の夕方の、すこしだけ橙色をおびた風が、わたしの頬を撫でて、髪のはじっこを、ゆっくりと、揺らした。
公園のほうから、子どもたちの笑い声が、きゃっきゃと、聞こえてくる。
わたしは、左の手のひらを、ぎゅっと、握りしめる。
「……いってきます」
そう、ちいさく、つぶやいて。
そっと、まぶたを、閉じた。
その瞬間。
──ふわり、と。
体が、ぐにゃりと溶けて、足のうらから、ぜんぶ、空に吸い上げられていくような。
そんな、奇妙な感覚が、した。
ぱち、と、まぶたを開けたとき。
そこは、まったく、別の世界だった。
「──……えっ」
声が、漏れる。
でも、その声は、わたしの、知っている声じゃ、なかった。
すこしだけ、低くて。
すこしだけ、しっとりとして。
ヴェールに包んだ硝子の鈴を振ったみたいな、品のいい、女のひとの声。
天井。
見たこともない、ふかぶかと深い藍色の、天井。
そこから、ぶら下がっている、シャンデリア。たくさんの、たくさんの、雫みたいな水晶が、夕日を受けて、ちらちらと、虹色にきらめいている。
わたしは、ベッドの上に、いた。
そう、ベッド。
それも、わたしの家の、ぎしぎし鳴る、シングルのベッドじゃない。
四隅に金箔をあしらった彫刻の柱が立っていて、そのあいだに、薄い薄い、白絹の天蓋が垂れている、お姫さまみたいな、おっきな、おっきな、ベッド。
体を、起こす。
絹の、しゅるりとした感触が、肌を、滑り落ちていく。
身につけているのは、薔薇色の、すそ長の、ねまき。
胸元に、こまかく、繊細なレースが編み込まれていて、ちょっと身じろぎするだけで、しゃらり、とちいさな音をたてる。
わたしは、ふらふらと、ベッドから降りた。
裸足の、足のうらに、ひんやりとした、大理石の床。
そして、視線の先に。
──姿見が、あった。
おおきな、おおきな、金縁の、姿見。
そこに、映っていたのは。
息が、止まった。
「……これ、が」
つぶやく声が、ふるえる。
そこに立っていたのは、見たこともないほど、美しい、少女、だった。
腰のあたりまで、まっすぐにのびた、銀の髪。
ひとすじ、ひとすじが、まるで月光をそのまま編んだみたいに、夕日のなかで、すぅっと、青みがかって光る。
色のうすい、すっと通った鼻筋。
ほんのり紅をさしたような、かたちのいい、くちびる。
そして──
伏せた長いまつげの奥で、しずかに、ふたつ、燃えている。
紫水晶。
そんなふうに、しか、たとえようのない、深い深い、すみれ色の、瞳。
「……ヴィオレッタ・ロザリンド」
その名前が、知らないはずなのに、ちゃんと、わたしの口からこぼれ落ちた。
姿見のなかの少女は、わたしと、おなじタイミングで、おなじように、かすかに、くちびるを震わせていた。
胸の鼓動が、どきん、どきん、と、おかしいくらい、はやい。
そっと、自分の頬に、手をふれてみる。
──ひんやり、と、ひやたい。
わたしの頬じゃ、ない。なのに、ちゃんと、わたしの感覚で、つたわってくる。
不思議、を通り越して、こわい、くらいだった。
「……シュナイダー、さん」
呟いた、その瞬間。
ぴ、ん。
頭のなかに、まるで耳の奥にちいさな鈴が落ちたみたいに、声が響いた。
『──はいはい、お疲れさま。聞こえる?』
「シュナイダーさんっ、これ、どうすれば」
『慌てない慌てない。まず、深呼吸ね。すーっ、はーっ』
「すーっ、はーっ」
『うん、いい子。──ところでね、いま、君に、ちょっとした、お知らせがあるんだ』
「お、お知らせ?」
『うん。──十分後にさ』
シュナイダーさんの声は、相変わらず、なんだか、楽しそうだった。
『この部屋に、王太子殿下が、来る』
「……は」
『茶会のお誘い、っていう名目でね。でも、実態は、ちょっとした、お説教だね』
「お、お説教って、どういうっ……」
『がんばって、すずねちゃん。初日から、メインキャラ登場だよ。ファイトっ』
「ちょ、ちょっと──!」
ぴ、ん、と、もう一度、鈴の音がして。
それきり、彼の声は、聞こえなくなった。
ぽつん、と、姿見の前に、わたしだけが、取り残される。
「……うそ、でしょ」
唇から、ちいさく、声が、もれた。
紫水晶の瞳が、わたしを、まっすぐ、見つめ返している。
──十分後。
王太子。
「断罪、フラグ」
その単語を、わたしは、思わず、口にしていた。
シュナイダーさんは、たしかに、こう言っていた。
『半年後に、無実の罪で婚約破棄されて、身分を剥奪されて、国外追放になる』
──そして、その婚約者というのが、エルセリア王国の、王太子殿下。
つまり、いまから、十分後に。
この部屋に来るのは。
その、本人。
「……まって、まって、まってまってまって」
姿見の前で、わたしは、おもわず、その場にしゃがみ込みそうになって。
それでも、なんとか、立っていた。
だって、その姿見のなかの彼女が。
わたしの顔をしたヴィオレッタが。
──きゅっと、唇を、噛みしめて。
それでも、まっすぐに、前を、見据えていた、から。
それから、十分は、おそろしいくらい、はやく、過ぎた。
ばたばたと、隣の控え室から、メイドさんが何人も、駆け込んできて。
「お嬢さま、お支度を!」「殿下が、もう、お庭の門を……!」「それから、薔薇の生花の髪飾りを──!」
そんな、悲鳴に近い声が、四方から、降ってくる。
わたしは、もう、なすがまま、だった。
ねまきを、するすると、剥かれて。
肌に、ひんやりとした、絹の下着を、すべらされて。
ぎゅう、と、コルセットの紐を、ぐいぐい引かれて。
「あぐっ……」
「お嬢さま、息を吐いてください、もうすこし、もうすこし」
「いっ、息、はい、ているっ……」
そのうえに、ふわり、と、淡い藤色のドレスを、かぶせられる。
すそに、銀糸で薔薇の刺繍。
胸元には、薄紫色の、ちいさな宝石が、ぽつ、ぽつ、と縫いつけられて。
たぶん、ぜんぶ、ほんもの。
そんな、現実、ある?
「お顔、こちらに」
化粧台の前に、座らされて。
頬に、ぽん、ぽん、と、白粉。
くちびるに、つ、と、紅。
最後に、銀の髪を高く結いあげて、そこに、生花の薔薇を、すべりこませる。
──ふわ、と。
血のような、深い、紅い色が、銀色の髪のなかで、息をした。
「……できました」
メイドさんが、ほうっと息をつく。
「いつも、お変わりなくお美しゅうございます、ヴィオレッタお嬢さま」
その声は、敬意に満ちていた。
なのに、なぜだろう。
──ほんの、ほんのすこしだけ。
その「いつも」のところに、よく見ないと気づかないくらいの、棘が、あった、気がした。
わたしは、姿見のなかの自分を、もう一度、見つめた。
完璧、と、しか、いいようのない令嬢が、そこに、立っていた。
すみれ色の瞳。銀色の髪。藤のドレス。──ぜんぶが、ぜんぶ、本物の、絵物語のお姫さま。
なのに、その口もとは。
ほんのり、いつのまにか、つめたく、引き結ばれていた。
ヴィオレッタの、表情。
たぶん、これが、彼女が、ふだん、彼の前で、まとっている、よろい。
「……ヴィオレッタ」
わたしは、そっと、心のなかで、彼女の名を、呼んだ。
『あなたは、ふだん、どんなふうに、笑うの』
返事は、なかった。
ただ、姿見のなかの彼女の、紫水晶の瞳が、ほんのほんのすこしだけ、揺れた、気がした。
ばたん、と、扉が、ひらかれた。
そして、
「──ヴィオレッタ嬢」
声が、した。
ふかい、ふかい、若い男の人の声。
低くて、それでいて、すこし掠れていて、まるで弦の張りつめた弓の音みたいな、緊張感のある声。
その瞬間、わたしの体は、わたしの意思とは、まったく関係なく、しゃん、と、背筋を伸ばしていた。
きっと、これは、ヴィオレッタの、体に染みついた、所作。
「ごきげんよう、レオハルト殿下」
口が、勝手に、動く。
その声の、つめたいこと。
しんと冬の朝の、はりつめた湖面みたいな、声だった。
わたしじゃない。
これは、わたし、の声、じゃない。
だって、わたし、こんなふうに、誰かに話しかけたこと、一度もない、もの。
ゆっくりと、顔を、上げる。
──ああ、と。
胸の奥で、しずかに、息を、のんだ。
その人は、まばゆかった。
すらりと背の高い、若い、男のひと。
軽くウェーブのかかった、亜麻色の髪。
意志の強そうな、すこしだけ吊り気味の、エメラルドの、瞳。
王家の紋章をあしらった、白と金の、軍服のような正装。
腰にさげた、銀のサーベル。
王太子。
レオハルト・ヴァン・エルセリア殿下。
──たしかに、絵物語の、王子さま、だった。
ただし。
その瞳が。
その、若い、エメラルドの瞳が、わたしを──ヴィオレッタを、見据える、視線が。
「……今日は、どうしても、君に、確かめたいことがあって、来た」
ことばは、おだやか、だった。
なのに、わたしの背筋に、ぞわり、と、冷たいものが、走った。
その目は。
恋人を、見る目じゃ、なかった。
婚約者を、見る目じゃ、なかった。
それは、まるで。
──法廷で、被告人を、見下ろす、検事の目。
息が、できなくなった。
「先日の、夜会のことだ」
殿下の声は、しずかに、つづく。
「グラディース侯爵令嬢が、階段の踊り場で、転倒した」
「……ええ」
口が、勝手に、答えた。
「軽い怪我で済んだのは、不幸中の幸いだ。──だが」
ふっと、エメラルドの瞳が、すぅっと、細まった。
「彼女が、転んだのは、誰かに、ドレスのすそを、踏まれたからだと、証言している」
「……」
「そして、そのとき、彼女のすぐうしろに立っていたのは──君だ」
部屋の、空気が、かたまった。
メイドさんたちは、いつのまにか、みんな、扉のむこうに、消えている。
部屋には、わたし──ヴィオレッタと、レオハルト殿下と、ふたり、だけ。
ヴィオレッタの体が、ぴくり、と、震える。
そして、口が、動いた。
「──ええ。たしかに、わたくしは、彼女の、うしろに、おりましたわ」
その声は。
ぞっとするほど、つめたかった。
「で、ありますから?」
「ヴィオレッタ」
殿下の声に、すこしだけ、苛立ちがにじむ。
「君は、認めるのか」
「なにを、ですの」
つらつらと、ヴィオレッタの口が、言葉を、紡いでいく。
なのに。
なのに、わたしの、心臓は。
ばくばくと、信じられないくらい、はやく、鳴っていた。
ヴィオレッタの、声は、つめたい。
ヴィオレッタの、ことばは、傲慢。
でも──
「だいじょうぶ、なの……?」
わたしは、ヴィオレッタの体の、ずっと、ずっと奥で。
ちいさく、ちいさく、声を、あげていた。
その瞬間、だった。
姿見のなかにいた、ヴィオレッタの、紫水晶の瞳。
それが、ほんの、わずかに。
ふるえた、気がした。
──ちがう。
わたしは、思った。
──ちがう、これは。
ヴィオレッタが、悪意で、言っているんじゃ、ない。
これは。
これは、彼女が、自分を、まもるために、必死で、まとっている、よろい、だ。
つめたい。傲慢。高慢。
──そう、思われたほうが、彼女には、楽なのだ。
優しいですね、と、笑いかけられて、それを、信じて、裏切られるよりも。
最初から、嫌われていたほうが。
最初から、嫌な女だと、思われていたほうが。
きっと、ずっと、ずっと、痛くない。
「……ヴィオレッタ」
わたしは、心のなかで、もう一度、彼女を、呼んだ。
『──ねえ、ヴィオレッタ』
返事は、ない。
でも。
胸の奥で、たしかに、なにかが、こくり、と、うなずいた、気がした。
わたしは、すぅっと、息を、吸った。
そして。
ヴィオレッタの口を、わたしの意思で。
──動かした。
「──殿下」
ぴくり、と、レオハルト殿下の眉が、跳ねた。
「ひとつ、おうかがいしてもよろしゅうございますか」
声が、ふるえそうになるのを、必死で、おさえる。
これは、ヴィオレッタの、品のいい、声。
「グラディース嬢は、ご自身で、わたくしに、踏まれた、と、おっしゃいましたか?」
「……なに?」
「彼女は、たしかに、ご自分で、わたくしの、足を、見た、と、おっしゃっておいでですか」
「それは、彼女のすぐ近くにいた、別の貴族令嬢が……」
「では、彼女ご本人は、ご自分の目で、ご覧に、なってはいない」
殿下の、エメラルドの瞳が、すぅ、と、見開かれた。
わたしは、こころのなかで、自分の鼓動の音を、何度も、押さえつけながら、つづけた。
「殿下。──わたくしは、否定も、肯定も、いたしません」
「……なんだと?」
「ただ、おひとつ。そのお話、グラディース嬢ご本人から、もう一度、きちんと、おうかがいになっては、いかがでしょうか」
「……」
「彼女が、ご自分の目で、ご自分の口で、わたくしの罪を、お訴えになるのなら」
すうっと、姿見のなかの、紫水晶の瞳が、まっすぐに、彼を、見据えた。
「──そのときは、わたくし、いかような罰でも、お受けいたしましょう」
部屋の、空気が、しんと、こおる。
レオハルト殿下は。
なにか言いかけて。
そのまま、ことばを、のみこんだ。
その、エメラルドの瞳が。
ほんの、ほんの、すこしだけ。
ゆれた、ように、見えた。
「……ヴィオレッタ嬢」
しばらくして、絞り出すような声で、彼は、つぶやいた。
「──君は、いつも、そうだ」
「?」
「いつも、そうやって、自分のことを、なにひとつ、語らない」
そう言って。
殿下は、すうっと、目を、伏せた。
その横顔は。
なんだか、ほんのすこしだけ、つかれていて。
ほんのすこしだけ、さみしそうで。
──まるで、迷子の、こども、みたいだった。
え、と、わたしは、心のなかで、目を瞬いた。
『──断罪エンドが確定している、悪役令嬢』
シュナイダーさんは、たしかに、そう、言った。
なのに。
いま、目の前にいる、この、王太子殿下は。
まるで、ヴィオレッタを、断罪したいと思っているみたいには。
ぜんぜん、見えなかった。
むしろ、まるで。
──助けたがって、いるみたいに。
そんな、ふうにすら、見えてしまったのだ。
「……失礼する」
殿下は、それだけ、言って。
くるりと、踵を、返した。
軍服のすそが、ふわり、と、ひるがえる。
ばたん、と、扉が、しまる。
そして。
部屋には、また、わたし──ヴィオレッタの体だけが、ぽつんと、残された。
ふらり、と、足の力が、抜ける。
姿見の前に、ぺたり、と、しゃがみこんだ。
藤色のドレスのすそが、しゃらり、と、大理石の床に、広がる。
「……ヴィオレッタ」
わたしは、姿見のなかの彼女に、そっと、ささやいた。
「あなた、いま──ふるえてる」
ほんとうに、見えるか見えないかくらいの、ちいさな震え。
それでも、それは、確かに、伝わってきた。
姿見のなかの紫水晶の瞳が。
ぽつ、と。
ひと粒だけ、しずくを、こぼした。
涙は、つぅ、と、白い頬を、しずかに、すべりおちて。
ぽたり、と、ドレスの薔薇の刺繍の上に、しずかに、落ちた。
「……だいじょうぶ」
わたしは、ヴィオレッタの、ひんやりとした頬に、ヴィオレッタの手で、そっと、ふれた。
「だいじょうぶ、だよ」
それは、彼女に、いい聞かせるみたいで。
それは、わたし自身に、いい聞かせるみたいでも、あって。
「──わたしが、いるから」
そう、つぶやいた、瞬間。
ぴ、ん、と。
頭の奥で、また、あの鈴の音が、した。
『──はい、すずねちゃん、お疲れさま! よく、がんばったね』
シュナイダーさんの、すこし、はしゃいだみたいな、声。
『じゃあ、お時間です。──また、明日の放課後、ね』
「あ、ま、まって──」
聞きたいことが、いっぱい、ある。
ヴィオレッタのこと、王太子殿下のこと、グラディース嬢のこと、それから、それから──
でも、もう、間に合わなかった。
ふわり、と。
体が、ぐにゃりと溶けて、足のうらから、ぜんぶ、空に吸い上げられていくような。
あの、感覚。
最後に、わたしは、姿見のなかの彼女に、もう一度、ちいさく、つぶやいた。
「いってきます、じゃ、なくて」
「──ただいま、って、また、戻ってくるね」
ぱち、と、まぶたを、開けた。
そこは、図書館の、ベンチの、上だった。
四月の、夕方の、橙色の光は、もう、夜のはじっこの紺色に、すこしずつ、塗りつぶされかけていた。
すずめの声が、する。
街灯が、ぽつ、と、ひとつ、灯る。
「……ふぅ」
長い、長い、ため息が、こぼれた。
まだ、心臓が、どきどきしている。
まだ、コルセットの締めつけの感触が、お腹に、残っている気がする。
まだ、銀の髪の、あの、しっとりとした重みが、肩のあたりに、息づいている。
わたしは、ぽけっとから、文庫本を、取り出して、開いた。
そこには、流麗な文字で、こう、書いてあった。
『初日のお仕事、お疲れさま。──次回出勤予定:明日、午後四時三十分』
「……明日も、あるんですね」
くす、と、わたしは、ひとりで、笑った。
笑ったあとに、ふと、気づいた。
最後の最後、ヴィオレッタの頬を、つたった、あの、ひと粒。
──あれは。
彼女の、涙、だったろうか。
それとも。
──わたしの、涙、だったろうか。
「……どっち、なんだろうね」
そう、つぶやいた、わたしの、左の手のひらの、薔薇の刻印は。
なぜだか、ほんのすこしだけ。
ぽぅ、と、あたたかく、なっていた。
ベンチから、立ち上がる。
夜の風が、頬を、するりと、撫でていく。
そして、わたしは、駅のほうへ、ゆっくりと、歩きはじめる。
──おかあさんが、まってる。
夕飯は、なに、かな。
たぶん、また、ちょっとだけ焦げたウィンナーが、お皿のはじっこに、ちょこんと載って。
たぶん、お母さんは、それを、ぜんぶ、自分のお皿に、こっそり寄せようとして。
たぶん、わたしは、それを、見つけて、笑ってしまうんだろう。
なんでもない、ふつうの、わたしの夜。
その、向こうがわで。
別の、世界の、絹のシーツのうえで。
──ひとり、ぼっちで、銀の睫毛を、伏せている、女の子が、いる。
「……ヴィオレッタ」
わたしは、ちいさく、その名を、口のなかで、転がした。
「明日もね、わたし、行くよ」
夜の街灯が、ぽつり、ぽつり、と、ともる。
そして、わたしの、放課後の、ふたつ目の、一日は。
──しずかに、しずかに、暮れていった。




