第4話 「人ならざるものの、はちみつ色の瞳」
その夜、わたしは、なんども、なんども、寝返りを、うった。
時計の、秒針の音。
ち、ち、ち、ち。
それが、いつもより、ずっと、ずっと、大きく、聞こえた。
枕元の、文庫本。
そこに刻まれた、流麗な、彼女の文字。
『──あれは、人間ではないわ』
そのことばが。
まぶたの、うらがわで。
ずっと、ずっと、銀の絹糸みたいに、ゆれて、ゆれて、消えてくれない。
「……ヴィオレッタ」
わたしは、ちいさく、つぶやいた。
「あの子は、いったい──」
そのとき、だった。
──こ、つ。
窓ガラスに、なにかが、当たる、おとが、した。
ぴくり、と。
わたしの、ぜんぶの、神経が、固まった。
──こ、つ。
──こ、つ、こ、つ。
「……っ」
わたしは、息を、ぐっと、こらえて、ふとんを、頭まで、引き上げた。
ち、ち、ち、ち、と、秒針が、刻む。
風だ。
たぶん、風で、桜の小枝が、当たって、いるだけ。
そうに、決まっている。
そうに、決まっている、のに。
わたしの、心臓は。
ばくり、ばくり、と、おそろしいくらい、はやく、なって。
それで、ようやく、わたしは、気づいた。
桜の枝は。
──わたしの部屋の、窓ガラスには、絶対に、とどかない。
それくらい、離れて、いる。
なのに。
──こ、つ。
──こ、つ、こ、つ、こ、つ。
ぴたり、と。
リズムが、変わる。
それは、まるで、
──"開けてください"、と。
そう、言って、いるみたい、だった。
「……」
そっと、ふとんから、目だけを、出す。
カーテンの、すきまから。
──ふたつの、ちいさな、光が、覗いていた。
うすい、はちみつ色の。
ふたつの、瞳が。
しずかに、しずかに、わたしの部屋を、覗き込んで、いた。
「……っ……!!」
声を、あげる、まもなく。
その、ふたつの瞳は。
ふふ、と、ちいさく、笑うように、たわんで。
そして。
すぅっ、と、夜の闇に、溶けて、消えた。
「──……うそ」
わたしは、ふとんを、握りしめた、手の、指の関節が、まっしろになるくらい、ぐっと、握っていた。
ばくり、ばくり、ばくり。
胸の鼓動が、耳の奥で、暴れて。
息が、できない。
「シュナイダー、さん」
わたしは、左の手のひらに、ぎゅっと、唇を、あてて、ささやいた。
「シュナイダーさんっ、シュナイダーさん、いますか、お願い、いるなら、答えて」
しん、と、夜の、ちんもく。
それから、ようやく。
ぴ、ん、と。
頭の奥に、あの、すずの音が、響いた。
『──……はい、はい、すずねちゃん。どうしたの、こんな、夜中に』
その声は。
いつも、なら、ふざけたように、軽やかな声。
なのに、こんやだけは、ほんのすこしだけ。
──緊張、している、ように、聞こえた。
「いま、わたしの、窓に」
『……うん』
「はちみつ色の、瞳が、ふたつ」
『──……そっか』
しずかに、しずかに、彼は、息を、ついた。
『──思っていたより、ずっと、はやかったね』
「シュナイダーさんっ、これ、どういうこと、ですか」
『落ち着いて、すずねちゃん。落ち着いて、聞いて、ね』
「……」
『あの子はね』
シュナイダーさんは、ことばを、えらぶように、ゆっくり、ゆっくり、つづけた。
『エミリア・グラディースは、ね』
『──"こちらの世界"にも、いる、んだ』
ぴたり、と、わたしの、息が、止まった。
朝。
四月の、まぶしい、光が、カーテンの、すきまから、つぅっと、差し込んで。
わたしの、まぶたを、そっと、撫でた。
「……あ、さ」
ぼんやりとした頭で、起き上がる。
口の中が、からからに、乾いていて。
肩が、ずしりと、おもい。
ゆうべの、出来事が、夢か、現実か、ぼやけたまま。
ふらり、と、洗面所に立った、わたしの、目に、映ったのは──
「……っ」
鏡の、なかの、自分。
まぶたが、すこしだけ、はれていた。
──泣いた、あとみたいに。
ううん、たぶん、ほんとうに、すこしだけ、泣いていたんだ。
ゆうべ、シュナイダーさんが、つづけて、教えてくれた、ことばのせいで。
『あの子は、ね、すずねちゃん』
『──エミリアは、君の、世界の、女子高生としても、生きてる』
その、ことばを、思い出すと、いまだに、指の先が、ふるえる。
「……すずちゃん、おはよう」
「あ、おはよ、おかあさん」
「ちゃんと、寝た?」
「……うん、たぶん」
「ううん、寝てない顔してる」
おかあさんは、わたしの頬を、ぷに、と、ひと指、押してから。
ふぅ、と、ちいさく、ため息を、ついた。
「ねえ、すずちゃん」
「うん?」
「もし、こわい夢、見たんなら、お母さんに、半分こ、する?」
──ああ。
おかあさんの、その、なんでもない、ことばが。
なんで、こんなにも、わたしの、目の、おくを、つよく、しめつけるんだろう。
「……うん、こんどね」
それだけ、いうのが、せいいっぱい、だった。
学校に、ついて。
下駄箱で、靴を、はきかえる。
そのとき、ふと、わたしの上履きの、なかに。
──白い、紙きれが、入っているのに、気づいた。
「……?」
ぴくり、と、心臓が、跳ねる。
ゆうべの、はちみつ色の、瞳が、よぎる。
ふらふらと、その紙を、ひらいた瞬間。
「す、すずねっ、おはよっ!」
「ひゃっ!?」
うしろから、三浦さんに、ばちん、と、肩を、叩かれて、わたしは、ほんとうに、心臓が、口から、跳ねでるかと、思った。
「な、なんで、そんな、生まれたての小鹿みたいな、リアクション……」
「ご、ごめん、ちょっと、寝不足で」
「うわ、また、それ」
くす、と、三浦さんは、笑って。
「で、なに、その、ラブレター?」
「えっ、ちが、ち、ちがうって!」
「ふふ、見せて?」
「だ、だめっ」
ぱっと、紙きれを、隠す。
三浦さんは、目を、ぱちくり、とさせて。
「……すずね?」
「うん?」
「あんた、なんか、ほんとに、最近、おかしいよ?」
「だ、だいじょうぶ、だよ」
「ほんとう、に?」
──ほんとうに、なんて、言える、わけが、ない。
わたしは、ぎこちなく、笑って、それから、教室に、駆け込んだ。
トイレに、駆け込んで。
個室の、扉を、しめて。
ふるえる手で、紙きれを、ひらいた。
そこには。
ふわふわとした、まあるい字で。
たったひとこと、こう、書かれて、いた。
『放課後、屋上で、おまちしておりますわ。』
──"あちらのヴィオレッタ様"の、お友達より。
「……っ」
カラン、と。
わたしの、手から、シャープペンが、落ちる、おとが、した。
その日、わたしは、ぜんぶの授業を、ぜんぶ、聞き逃した。
教科書の、文字が、ぜんぶ、にじんで、見えた。
頭のなかで。
シュナイダーさんの声が。
なんども、なんども、ぐるぐるしている。
『エミリアは、君の世界では、桐生エマ、っていう名前の、女子高生として、生きている』
『きっと、彼女も、君と、おなじ、なんだ』
『放課後だけ、向こうの、エミリア・グラディースに、憑依している』
『でもね、すずねちゃん』
『──彼女のバイトの、雇い主は、ぼくじゃ、ない』
「……ちがう、雇い主」
ぽつ、と、口のなかで、わたしは、つぶやく。
『そうだよ。──ぼくのほかにも、"死神"はいる、ってこと』
『そして、その死神は、ね』
『──ヴィオレッタを、生かしたくない、側の、死神なんだ』
ぞくり、と、した。
「シュナイダーさん、それって、つまり」
『うん』
『君と、エマちゃんは、ね』
『──おなじ、ステージの、上で。逆向きに走らされている、二人の、競走者、なんだ』
放課後の、チャイムが、鳴る。
きぃん、こぉん、かぁん、こぉん。
四月のおわりの、ちょっとあたたかい、夕方の、風。
わたしは、教室の窓から、ちらり、と、空を、みあげた。
うすい、藤色の、雲が、ふんわりと、流れていた。
ちょうど、ヴィオレッタの、ドレスの色みたいだ、と、思った。
そのとき。
──こん、と。
ペンケースの、はしっこに、置いていた、文庫本が。
ひとりでに、ぱらり、と、めくれた。
そこに、流麗な、彼女の字で、ひとこと。
『行ってはなりません』
「……ヴィオレッタ」
わたしは、その文字に、そっと、指を、ふれた。
すぅっと、絹の、つめたさ。
「ごめんね」
ささやく。
「でも、たぶん、わたしね」
「行かないと、いけないと、思うんだ」
「だって」
「──だって、それじゃ、なんにも、変わらないもの」
ことり、と。
わたしは、文庫本を、そっと、閉じた。
そして、ぽけっとに、しまって。
立ち上がる。
足が、ふるえている。
膝が、ふるえている。
それでも、わたしは、屋上への、階段を。
ゆっくり、ゆっくりと、のぼり、はじめた。
屋上の、扉を、押し開けた、瞬間。
──ふぁさ、と。
風が、わたしの、まえがみを、ふわり、と、もちあげた。
四月の、夕方の、空。
うすい、うすい、藤色と、橙色が、まざりあった、空。
その、まんなかに。
ひとり、立って、いた。
ふわふわとした、たまご色の、巻き毛。
やわらかく、横にゆれる、制服の、スカートの、ひだ。
そして。
ふりむいた、瞬間に、こちらを、見つめた、
──はちみつ色の、瞳。
「あ、ら」
すずやかに、彼女は、笑った。
「ほんとうに、来てくださいましたのね、ヴィオレッタ様。──いいえ」
ふふっ、と、両手を、後ろで、組んで。
その子は、すこしだけ、首を、かたむけて、こう、つづけた。
「──柊木、すずね、さま?」
ぴたり、と。
わたしの、足が、止まった。
「……っ」
「あら、そんなに、お驚きにならないで」
ふわり、と、彼女の、淡いリボンが、風に、揺れる。
「だって、わたくしも、おなじ、ですもの」
くるり、と、彼女は、ターンを、するみたいに、ひとまわりして。
「桐生エマ、と、申しますわ。十六歳。──そして、放課後の、二時間だけ。あちらの世界では、エミリア・グラディース、を、しております」
「……あなた、が」
「ええ。お初に、お目に、かかります、ね」
桐生エマ、と、名乗った、その子は。
ふわり、と、両手を、胸のまえで、合わせて、おじぎした。
その、所作の、優雅で、可憐なこと。
そして。
その、はちみつ色の瞳の、奥の。
──ぞっとするほど、しずかな、こと。
「ヴィオレッタ様は、ね」
エマちゃんは、つぶやいた。
「あなたが、思っていらっしゃるよりも、ずっと、つよい、ご令嬢、ですわ」
「……」
「だから、わたくし、ね」
「あの子から、あの子の、人生を、奪うことが、できるのなら」
「──どんなことでも、します、の」
ふぁさ、と、風が、すずなりに、彼女のリボンを、揺らす。
その、はちみつ色の、瞳の、おくに。
ぽぅ、と、はじめて、火が、ともった、気が、した。
それは、にくしみ、では、なかった。
それは、いかり、でも、なかった。
ただ。
ただ──
「だって」
ふっと、彼女は、伏し目に、なって、こう、つづけた。
「あの子は、ね、すずねちゃん」
「──わたくしの、お姉さま、なの、ですもの」
「……え」
「ふふ。びっくり、しました?」
ふわふわと、笑う、その目から。
ぽたり、と、ひと粒。
わたしより、ずっと、ずっと、深い、深い、涙が。
しずかに、白い頬を、すべりおちた。
「でも、ね」
「──わたくしの、お姉さまは」
「もう、十年、まえに」
「ロザリンド侯爵家の、いちばん、おく、ふかい、お部屋で」
「ひっそりと、息を、ひきとった、ひと、なのですわ」
ぴたり、と、世界が、止まった、気がした。
「……えっ……」
声が、ふるえる。
「だって、ヴィオレッタは、いま、あの世界で、ちゃんと──」
「ええ、ええ、そう、ですわね」
エマちゃんは、こく、と、うなずいた。
「だから、ね」
ふっと、彼女の、はちみつ色の瞳が。
すぅっと、わたしを、見据えた。
その、瞳が。
ぐにゃり、と、すこしだけ、ゆがんで。
たてに、ほそながく、瞳孔が、ひらいた。
──ぞわり、と、した。
それは、もう、人間の、目では、なかった。
「いま、ヴィオレッタの、体に、入って、いる、その、たましいは」
「ほんとうに、わたくしの、お姉さまの、たましい、なのか」
「──それとも」
ふふ、と、彼女は、笑う。
「死神に、騙されて、まったく、別の、たましいが、押し込められて、いるだけ、なのか」
「それを、確かめにきた、だけ、ですの、よ」
ふぁさ、と。
風が、つよく、吹いた。
わたしの、まえがみが、ぐしゃりと、ふきあげられて。
エマちゃんの、たまご色の、巻き毛も、おおきく、ながれた。
そして。
その、ふわふわとした、巻き毛の、おくの、首すじに。
──ぽつり、と。
わたしと、おなじ、薔薇の、刻印が。
ただし、わたしのと、ちがって、
──ふかい、ふかい、漆黒の、ばらの、刻印が。
しずかに、しずかに、息を、して、いた。
「ねえ、すずねちゃん」
エマちゃんは、ふっと、そっと、わたしの、すぐ目のまえまで、歩み、よって。
ふわり、と、わたしの、耳元に、ささやいた。
「ひとつ、だけ、教えて、くださいまし」
「……」
「あなたが、ヴィオレッタの体で、目を、覚ました、その、いちばん、はじめての、瞬間に」
「あの子は、ほんとうに、なんにも──」
「あなたに、語りかけて、こなかったの?」
ぴたり、と。
わたしの、心臓が、止まった、気がした。
──ちがう。
ヴィオレッタは、わたしのなかに、いる。
ちゃんと、いる。
文庫本に、書きこんでくれて。
あなたの、ことを、もっと知りたい、と、いう、ことばを、教えてくれて。
──そして、わたしに、警告までして、くれた。
なのに。
エマちゃんの、ことばは。
その、ぜんぶの、確信に。
ぞくりと、つめたい、針を、刺してきた。
「……だって、ヴィオレッタは、ちゃんと──」
ことばが、出てこなく、なる。
エマちゃんは、ふふっ、と、わらった。
「あら」
「ヴィオレッタ、って、もう、呼んで、らっしゃるの?」
「……」
「死神は、教えませんでしたか、すずねちゃん」
ふぁさ、と。
エマちゃんの、たまご色の、巻き毛が、わたしの、頬を、ふんわりと、撫でて。
「あの世界で、ヴィオレッタ・ロザリンド、と、呼ばれている、お嬢さまの、ほんとうのお名前は」
「──"ヴィオレッタ"、では、ない、ということを」
世界の、ぜんぶの、音が、消えた。
わたしの、ぜんぶの、思考が、まっしろになった。
「シュナイダーは、あなたに、ぜんぶの真実を、お話しては、いらっしゃいませんわ、ね」
「……」
「あの死神は、ね、すずねちゃん」
「いつも、いつも、いちばん、たいせつなことだけを」
「──こっそり、隠して、契約させるのが、おとくいなの、ですもの」
ふっと、エマちゃんは、すぅっと、わたしから、はなれて。
ぱしゃ、と、屋上の、フェンスに、寄りかかる。
夕日が、彼女の、ふわふわの巻き毛を、ぜんぶ、橙色に、染める。
その、姿は。
ほんとうに、ほんとうに、可憐な、女子高生で。
なのに、あんまりに、しずかで。
「ねえ、すずねちゃん」
「……はい」
「ひとつだけ、ね、約束、してください、まし」
「……なに」
エマちゃんは、ふっと、目を、伏せて。
「──わたくしを、憎まないで、ね?」
「えっ……」
「だって、わたくしは、ね」
「あなたから、お姉さまの、ふりをした、知らない誰かを、引きはがしたい、だけ、なんですもの」
ふっと、彼女の、はちみつ色の、瞳が、ほんの、すこしだけ、潤んだ。
「もし、もし、ね」
「あなたが、ほんとうに、お姉さまの、たましい、だったら」
「わたくし、すぐに、おうちに、お連れ、いたしますから」
「だから、ね、すずねちゃん」
「明日の、放課後、もう一度、ヴィオレッタのお部屋に、出勤、なさいませ」
「そうしたら、わたくしも、エミリアの体で、伺います、ので」
「ふたりで、ゆっくり──確かめて、まいりましょう?」
ふわり、と、エマちゃんは、わたしに、ちいさく、手を、ふって。
そして、屋上の、扉のほうへ、ゆっくり、ゆっくり、歩いていった。
その、うしろ姿が、扉の向こうに、消える、瞬間。
ふっと、ふりかえって、彼女は、こう、ささやいた。
「もし、明日、ヴィオレッタが、また、あなたに──」
「──"なにかを、書き残したら"」
「それを、ぜんぶ、ぜんぶ、信じてしまう前に、ね」
「ひとつ、だけ、自分に、問いかけて、ください、ませ」
「『その文字は、ほんとうに、ヴィオレッタが、書いたものですか?』──と」
ぱた、ん、と。
屋上の、扉が、しまる。
そして。
わたしは、屋上に、ひとり、ぽつんと、取り残された。
ふらふらと、ベンチまで、たどりついた、わたしは。
ぺたり、と、座り込んで。
ふるえる手で、ぽけっとから、文庫本を、取り出した。
ぱらり、と、ひらく。
そこには、いつもの、流麗な、文字で。
きょうも、ひとこと、刻まれて、いた。
『すずね、無事ですか。──"あの子の言うこと"を、半分だけ、信じなさい』
「……半分」
わたしは、つぶやいた。
「半分、って、どこから、どこ、まで」
ぽつ、と、ページに、ひと粒、しずくが、おちる。
「……ねえ、ヴィオレッタ」
「あなた、ほんとうに、ヴィオレッタ、で、いいの?」
その、問いに。
文庫本の、文字は。
しばらく、しずかな、まま、だった。
それから、ようやく。
ゆっくりと、ゆっくりと、新しい文字が、にじみだした。
『──ええ。』
『でも、わたしの、ほんとうの、なまえは。』
『──まだ、あなたに、お教え、できないの。』
『ごめんなさい、すずね。』
『でも、どうか、信じて。』
『──わたしは、あなたの、味方、ですから』
ぽたり、と。
わたしの、涙が。
その、最後の文字の、すぐ、となりに、おちた。
「……ばかみたい」
わたしは、笑った。
「会ったことも、ないのに」
「会ったことも、ないのに、さ」
「──どうしてこんなに、信じたく、なるんだろう、ね」
夕日が、ベンチを、橙色に、染める。
四月の、おわりの、風。
すずめの、声。
わたしの、左の手のひらの、薔薇の刻印は。
ぽぅ、と、しずかに、銀色に、戻って。
そして。
その、薔薇の、はなびらの、いちまい、だけが。
──ほんの、ほんのすこしだけ。
漆黒に、染まって、いた。




