第八話 姉、帰郷。
「お兄ちゃんがいるって、どんな気持ちなんだろう。」
前世で、そんなことを考えたことがある。
休日。
渋谷の公園だった。
ベンチへ座りながら缶コーヒーを飲んでいると、一人の少年が転んだ。
「痛っ!」
泣きそうになった、その瞬間。
高校生くらいの少年が駆け寄る。
「また転んだのか。」
頭を軽く小突く。
「ほら。」
手を差し出す。
弟は笑った。
「ありがとう、お兄ちゃん。」
その何気ないやり取りが、妙に胸へ残った。
(兄弟って、こんな感じなんだ。)
羨ましかった。
俺には一度も経験できなかった。
だから、この世界で父さんから「お前には姉がいる」と聞いた時。
少しだけ嬉しかった。
でも、その姉はずっと王都にいた。
魔法学院。
俺が生まれる前から。
だから。
知っているのに、知らない人だった。
◇◇◇
朝。
「ラーズ!」
玄関の方から母さんの声が飛んできた。
いつもより大きい。
いや。
浮かれている。
俺はパンを咥えたまま顔を上げた。
「どうしたの?」
母さんは一枚の封筒を胸へ抱きしめていた。
「手紙よ!」
父さんも立ち上がる。
「来たか。」
「え?」
母さんは満面の笑みで封を開いた。
羊皮紙を広げる。
震える声で読み始めた。
「――王立ヴァリス魔法学院より冬季休暇に入ります。」
一呼吸置く。
そして。
涙ぐみながら笑った。
「リスが帰ってくる!」
家の空気が一瞬で変わった。
「本当に?」
「本当よ!」
母さんは俺を抱きしめた。
「ラーズ!」
「今日、お姉ちゃんに会えるのよ!」
胸が高鳴る。
(ついに。)
俺の姉。
リス。
会ったことのない家族。
「いつ来るの?」
父さんが手紙を読み返す。
「昼頃だ。」
「もうすぐだな。」
◇◇◇
それからの母さんは大変だった。
「掃除!」
「毛布!」
「食器!」
「ラーズ、そこ持って!」
「はい!」
家中が戦場になる。
父さんは苦笑していた。
「そこまでしなくても。」
「五年ぶりなのよ!」
「娘が帰るの!」
「当然でしょう!」
父さんは肩をすくめた。
「その通りだ。」
俺は掃除を手伝いながら少し笑った。
前世では。
誰かの帰宅をこんなに楽しみにしたことがあっただろうか。
思い出せない。
◇◇◇
昼。
村の入口。
みんな集まっていた。
「まだかな。」
「もう来るよ。」
ウラが俺の隣で背伸びする。
アイラは少し後ろ。
緊張しているらしい。
「お姉さんって。」
小さく聞く。
「怖い人?」
「分からない。」
正直に答えた。
会ったことがないから。
その時だった。
馬の足音。
荷車とは違う。
きれいな二頭立ての馬車が村へ入ってきた。
「来た!」
子どもたちが走る。
馬車が止まる。
扉が開く。
最初に見えたのは。
青いローブだった。
銀色に近い長い髪。
陽の光を受けて柔らかく揺れる。
背は高い。
腰には短い杖。
胸元には学院の紋章。
まるで物語から出てきた魔法使いみたいだった。
彼女がゆっくり地面へ降りる。
周囲を見回す。
そして。
「お母さん!」
走った。
母さんも走る。
二人は勢いよく抱き合った。
「リス!」
「会いたかった!」
泣いている。
母さんも。
リスも。
父さんは少し遅れて近づいた。
「ただいま。」
「おかえり。」
父さんは短く言った。
でも。
その声は少し震えていた。
リスは笑う。
「お父さん。」
今度は父さんも抱きしめた。
五年。
その時間の重さが伝わってくる。
◇◇◇
しばらくして。
リスの視線が俺へ向いた。
「あ。」
止まる。
俺も止まる。
初めて会う。
でも。
血の繋がった姉。
彼女はゆっくり近づいた。
膝をつく。
目線を合わせる。
優しく笑う。
「あなたがラーズ?」
俺は頷いた。
少し緊張する。
でも。
自然に言葉が出た。
「初めまして。」
少し照れながら笑う。
「お姉ちゃん。」
その瞬間。
リスが固まった。
「…………。」
数秒。
動かない。
そして。
「かわいいーー!!」
ぎゅうううっ!!
「わっ!」
抱きしめられた。
苦しい。
でも柔らかい。
「本当に弟!」
「生きてる!」
「しゃべった!」
「当たり前だよ!」
「かわいい!」
頭を撫でられる。
髪をぐしゃぐしゃにされる。
「ちょっ。」
「離して!」
「無理!」
「五年分!」
笑い声が広場いっぱいに広がった。
◇◇◇
家へ帰る途中。
リスはずっと俺の隣だった。
「歩ける?」
「歩けるよ。」
「疲れてない?」
「大丈夫。」
「寒くない?」
「寒くない。」
質問が止まらない。
「ラーズ。」
急に真面目な顔になる。
「私ね。」
少し笑う。
「ずっと会いたかった。」
その一言で。
胸が少し熱くなった。
俺も。
会いたかった。
◇◇◇
家へ着く。
荷物を置く。
リスがローブを脱ぐ。
「ふぅ。」
一気に雰囲気が変わった。
学院では優等生なんだろう。
でも。
家では。
「お母さん!」
「お腹すいた!」
「パンある?」
完全に娘だった。
父さんが笑う。
「学院じゃそんな顔しないんだろ。」
「しない。」
即答だった。
「恥ずかしいもん。」
「今してるじゃない。」
「家だから。」
その答えが好きだった。
◇◇◇
午後。
ウラとアイラも遊びに来た。
「こんにちは。」
「お邪魔します。」
リスは二人を見る。
目を丸くする。
「かわいい!」
嫌な予感。
「ほっぺ!」
ぷに。
ウラの頬が伸びる。
「むぅ!」
次。
アイラ。
ぷに。
「ふぇ。」
二人とも真っ赤。
「ごめんごめん。」
全然反省してない笑顔だった。
「ラーズ。」
リスがニヤニヤする。
「人気者だね。」
「え?」
「いつも二人と一緒なの?」
「うん。」
「ふーん。」
ウラが顔を赤くする。
「そ、そういうのじゃない!」
「何が?」
「何でも!」
リスが笑う。
「かわいい。」
完全に楽しんでいた。
◇◇◇
夕方。
リスは学院の話をしてくれた。
「学院って。」
俺が聞く。
「どんなところ?」
リスの目が輝く。
「大きいよ!」
「図書館だけで、この村くらいある。」
「え?」
「本当に。」
想像できない。
「魔法の実技場。」
「飛行訓練。」
「魔道具工房。」
「寮。」
話を聞くだけで胸が高鳴る。
「すごい。」
「でしょ?」
でも。
リスは少しだけ表情を曇らせた。
「でもね。」
声が静かになる。
「優しい人ばかりじゃない。」
部屋が少し静かになった。
「才能で比べられる。」
「家柄で見られる。」
「負けたら笑われることもある。」
俺は黙って聞いていた。
前世と少し似ている。
場所が変わっても。
人は人なんだ。
「それでも。」
リスは笑う。
「学ぶのは楽しい。」
その笑顔は本物だった。
◇◇◇
夜。
夕食の後。
父さんと母さんが片付けをしている。
俺は庭へ出た。
手のひらへ魔力を集める。
小さな火。
風。
水。
本に書いてあった通り。
呼吸を整える。
「……。」
その様子を。
誰かが見ていた。
振り向く。
リスだった。
「上手。」
「ありがとう。」
彼女は俺の魔法をじっと見つめる。
少し首を傾げた。
(変。)
そんな顔だった。
でも。
何も言わない。
代わりに笑う。
「誰に教わったの?」
「父さん。」
「なるほど。」
納得したように頷く。
でも。
心の中では違うことを考えていた。
それは俺には分からなかった。
◇◇◇
その夜。
眠れなかった。
縁側へ出る。
星空。
冷たい風。
そこには。
リスが座っていた。
「眠れない?」
「ちょっと。」
隣へ座る。
しばらく二人で空を見る。
リスがぽつりと呟く。
「ラーズ。」
「なに?」
「いつか学院へ来る?」
その質問に。
地図を思い出した。
ガレス。
魔法の本。
王都。
そして。
この村。
全部つながる。
俺は笑った。
「行く。」
リスも笑う。
「ほんと?」
「うん。」
少し間を置く。
「でも。」
村を見る。
暖かい灯り。
家族。
ウラ。
アイラ。
父さん。
母さん。
「その前に。」
静かに答えた。
「もっと、この村で学びたい。」
リスは何も言わなかった。
ただ。
俺の頭へ手を乗せる。
優しく撫でる。
「そっか。」
その手は。
母さんとも違う。
父さんとも違う。
初めて知る。
姉の温もりだった。
その夜。
俺は初めて思った。
前世では手に入らなかったものが。
また一つ。
この世界で増えたのだと。




