第七話 初めての失敗
「先生って、失敗したことないんですか?」
放課後の教室。
窓の外では夕日が校舎を赤く染めていた。
質問したのは、一番後ろの席に座る男子生徒だった。
俺は少し笑った。
「どうしてそう思う?」
「先生って、何でも知ってるから。」
教室の何人かが頷く。
俺はチョークを机に置いた。
「そんなことないよ。」
少しだけ考えてから答える。
「失敗しない人なんて、一人もいない。」
「先生も?」
「もちろん。」
その時は笑って答えた。
でも。
心の中では違うことを考えていた。
(俺の一番大きな失敗は。)
黒板に映る自分の影を見る。
(生きることを後回しにし続けたことだ。)
家族はいつかできる。
友達はそのうち増える。
幸せは未来にある。
そう思い続けたまま。
人生は終わった。
もし、もう一度やり直せるなら——
◇◇◇
「ラーズ。」
朝日がまぶたを照らす。
目を開けると、母さんがカーテンを開けていた。
「いい天気よ。」
「ほんとだ。」
窓の外は雲一つない青空だった。
今日は特別な予定はない。
父さんは朝から見回り。
ウラは畑仕事を手伝うと言っていた。
アイラは木工房で父親を手伝うらしい。
つまり。
久しぶりに、一人で本を読める。
枕元に置かれた古い革表紙の本へ視線を向ける。
ガレスからもらった『初級魔術理論』。
昨日は読むだけで終わった。
今日は。
実際に試してみよう。
朝食を終えると、裏庭へ向かった。
庭には大きな樫の木が一本立っている。
父さんが魔法を教えてくれた場所だ。
俺は本を開く。
最初の章。
『魔力とは流れである。』
流れ。
父さんは「体の中の温かさ」と教えてくれた。
でも、この本はもっと細かい。
呼吸を乱す者は魔力を乱す。
力任せに集めれば、魔力は散る。
想像は魔法の形を決める。
「なるほど。」
思わず頷いた。
前世で数学を教えていた時と似ている。
答えだけ覚えても意味がない。
仕組みを理解しないと応用できない。
「よし。」
今日は実験だ。
最初の課題。
水球を崩さずに維持すること。
簡単そうに見える。
でも。
本には「初心者の多くが最初につまずく」と書かれていた。
掌を前へ出す。
深呼吸。
魔力を集める。
水。
小さな雫が浮かぶ。
(できた。)
いや。
まだだ。
丸く。
崩れないように。
「……。」
ぷるぷる震える。
形が歪む。
「もう少し。」
次の瞬間。
ぱしゃっ!
顔面に全部飛んだ。
「ぶっ!」
冷たい。
びしょ濡れだ。
その時。
「ぷっ。」
後ろから笑い声。
振り向く。
ウラだった。
両手で口を押さえている。
「ご、ごめん。」
全然ごめんじゃない顔だ。
「ラーズ。」
肩が震えている。
「顔。」
「笑うな。」
「無理。」
ついに吹き出した。
「ぷははは!」
その横で。
アイラは慌てて布を持ってきた。
「ふ、拭く?」
「ありがとう。」
「ごめんなさい。」
「いや。」
苦笑する。
「失敗したのは俺だから。」
ウラはまだ笑っていた。
「水魔法で水浴びする人初めて見た。」
「忘れろ。」
「無理。」
今日一日は絶対に言われ続ける。
そう確信した。
午後。
気を取り直して本を読み進める。
次の項目。
魔力感知。
魔力を見るのではない。
感じる。
自分の中を流れるものを。
「……。」
目を閉じる。
呼吸。
吸う。
吐く。
静かに。
何も感じない。
もう一回。
また。
十分。
二十分。
三十分。
「……分からない。」
焦る。
父さんはもっと簡単そうだった。
俺だけできない?
嫌な考えが浮かぶ。
(まさか。)
(才能がない?)
その言葉が頭をよぎる。
前世。
「先生、私には無理。」
あの生徒の顔が浮かぶ。
俺は何て言った?
「まだ分からないだけ。」
……。
今度は自分に言う番だった。
「まだ。」
拳を握る。
「まだ分からないだけ。」
夕方。
焦りが勝ってしまった。
「もう一回。」
今度は強く魔力を集める。
もっと。
もっと。
もっと。
掌が熱くなる。
「いける。」
そう思った瞬間。
本の一文が頭をよぎる。
力任せに集めれば、魔力は散る。
遅かった。
バチッ!
白い光。
小さな衝撃。
「うわっ!」
手が弾かれる。
地面へ尻もちをついた。
掌がじんじんする。
大きな怪我じゃない。
少し赤くなっただけ。
でも。
「ラーズ!」
母さんの声が飛んだ。
家から駆けてくる。
「大丈夫!?」
「う、うん。」
「見せて。」
手を取られる。
赤くなった掌を見て。
母さんの表情が曇る。
「無茶したでしょう。」
「……。」
図星だった。
「ごめん。」
怒られると思った。
でも。
母さんはため息をついて。
ぎゅっと抱きしめた。
「怪我をするのが怖いんじゃないの。」
優しい声だった。
「あなたを失うのが怖いの。」
その言葉に。
胸が締めつけられた。
前世では。
そんなふうに言われたことがなかった。
夜。
父さんが帰ってきた。
夕食を終えた後。
「ラーズ。」
「少し歩くか。」
村の外れ。
星空。
風が気持ちいい。
二人で並んで座る。
しばらく沈黙。
父さんが口を開いた。
「どうしてそんなに強くなりたい?」
その質問に。
喉まで言葉が出かかった。
「一度死んだから。」
言えない。
絶対に。
代わりに。
本当の気持ちを口にした。
「守りたい人がいる。」
父さんは静かに頷いた。
「母さん。」
「ウラ。」
「アイラ。」
「村のみんな。」
全部本心だった。
父さんは星空を見上げる。
「知ってるか。」
「何?」
「あの樫の木。」
庭の大木を指差す。
「百年以上生きてる。」
「そんなに?」
「でも。」
父さんは笑った。
「急いで育ったわけじゃない。」
少し間を置く。
「急ぐ木ほど折れやすい。」
その言葉が。
胸の奥へ静かに落ちていく。
「強さは。」
父さんは俺を見る。
「積み重ねだ。」
その言葉を聞いた瞬間。
前世の自分が重なった。
「才能より積み重ね。」
昔。
俺自身が生徒へ言っていた言葉。
忘れていたのは。
俺の方だった。
翌朝。
もう焦らない。
庭へ出る。
本を閉じる。
今日は読まない。
呼吸だけ。
吸う。
吐く。
耳を澄ます。
鳥。
風。
葉の音。
暖炉の煙。
全部聞こえる。
その静けさの中で。
体の奥が少しだけ温かくなった。
「……。」
昨日とは違う。
細い。
本当に細い。
糸みたいな流れ。
胸から肩へ。
肩から腕へ。
掌へ。
「これ。」
目を開く。
何も光っていない。
何も派手じゃない。
でも。
分かった。
魔力が流れている。
初めて。
ちゃんと感じた。
「できた。」
誰に聞かせるでもなく呟く。
大きな魔法じゃない。
世界を変える力でもない。
でも。
これは確かな一歩だった。
その頃。
村から少し離れた森。
誰もいないはずの場所で。
風が止まる。
葉が揺れる。
木々の奥。
淡い緑色の光が一瞬だけ瞬いた。
まるで。
誰かがこちらを見つめているように。
その視線に気づいた者は。
まだ誰もいなかった。




