第六話 旅人が運んできた世界
人の流れを眺めるのが好きだった。
前世の俺――ルーク・アージェットは、仕事帰りによく渋谷駅のホームへ立っていた。
夕方。
無数の人が電車へ乗り込む。
スーツ姿の会社員。
笑い合う高校生。
恋人同士。
旅行用の大きな荷物を持つ人。
みんな、それぞれ帰る場所がある。
行きたい場所がある。
「いいな。」
何度そう思ったか分からない。
俺には、家へ帰る理由がなかった。
ただ眠るために帰るだけだった。
あの日も、ホームへ吹き込む風を受けながら考えていた。
「俺も、いつか知らない場所へ行けたら。」
その願いは叶わなかった。
……少なくとも、あの世界では。
◇◇◇
「ラーズ! 起きて!」
布団が揺れる。
目を開ける。
木の天井。
暖炉の匂い。
もう東京じゃない。
五歳になった俺は、夢と現実をすぐに切り替えられるようになっていた。
「どうしたの?」
ウラが興奮した顔で部屋へ飛び込んできた。
「大変!」
「何が?」
「旅人!」
「え?」
「キャラバンが来た!」
その一言で眠気が吹き飛んだ。
旅人。
この世界へ来て五年。
村の外から大勢の人が来るのを見るのは初めてだった。
広場へ走る。
もう村中がお祭りみたいになっていた。
荷馬車が三台。
大きな馬。
見たことのない布。
木箱。
樽。
金属製の道具。
子どもたちは目を輝かせている。
「すごい……。」
思わず呟いた。
「ラーズ!」
アイラも駆け寄ってくる。
今日は俺の袖ではなく、小さな籠を抱えていた。
「一緒に見よう。」
「うん。」
その後ろで。
「……。」
ウラが少しだけ頬を膨らませる。
「今日は私の隣。」
「え?」
「約束。」
「ああ。」
昨日のことだ。
「もちろん。」
その一言で機嫌が少し戻る。
アイラは困ったように笑った。
この二人。
最近、表情だけで何を考えているか少しずつ分かるようになってきた。
「おーい!」
大きな声が響く。
荷馬車から一人の男が飛び降りた。
立派な髭。
日に焼けた肌。
豪快な笑顔。
「久しぶりだな!」
父さんと握手する。
「ガレス。」
「元気そうじゃないか。」
どうやら知り合いらしい。
父さんが俺たちを呼ぶ。
「紹介しよう。」
「この人はガレス・ローエン。」
「旅商人だ。」
商人。
つまり、この人はいろんな町を旅している。
俺は自然と前へ出ていた。
「こんにちは。」
「お。」
ガレスが笑う。
「礼儀正しい坊主だ。」
「村長の息子だ。」
父さんが肩へ手を置く。
「ラーズ。」
「よろしく。」
「こちらこそ。」
ガレスは俺をじっと見た。
「目が面白いな。」
「え?」
「子どもの目じゃない。」
ドキッとした。
一瞬だけ。
本当に一瞬だけ、心臓が止まりそうになった。
でも。
次の瞬間。
「好奇心でいっぱいの目だ。」
笑って頭を撫でた。
(危ない。)
考えすぎだ。
広場には珍しい物ばかりだった。
赤い果物。
青い布。
ガラス瓶。
小さな銀色の飾り。
「これ何?」
俺が聞く。
ガレスは嬉しそうに説明を始めた。
「これは南の国の果物。」
「こっちは砂漠の布。」
「これは港町で作られたガラス。」
全部。
村では見たことがない物だった。
「世界って。」
自然に口から漏れる。
「広いんだ。」
ガレスは笑う。
「坊主。」
荷馬車から丸めた羊皮紙を取り出した。
「見てみるか?」
広げる。
地図だった。
「……。」
言葉を失う。
山。
川。
森。
街。
王都。
国境。
海。
俺たちの村は。
小さな点だった。
本当に小さな点。
「ここ。」
ガレスが指差す。
「お前たちの村。」
「こんなに小さい。」
「そうだ。」
そして。
指はどんどん遠くへ動く。
「ここは王都。」
「ここは魔法都市。」
「ここは海。」
「海?」
「水が地平線まで続く場所だ。」
海。
前世では知っていた。
でも。
この世界の海は。
想像するだけで胸が高鳴った。
「本当にあるの?」
ウラが聞く。
「もちろん。」
「ドラゴンも?」
「場所による。」
「魔法学院は?」
「ある。」
アイラが小さく聞く。
「怖い人も?」
ガレスは少しだけ笑った。
「いる。」
「でも。」
真面目な顔になる。
「優しい人も、たくさんいる。」
その答えが好きだった。
世界は白でも黒でもない。
きっと。
前世もそうだったんだ。
俺が見られなかっただけで。
昼になる。
キャラバンの子どもたちも遊び始めた。
年齢は俺たちより少し上。
七歳くらい。
「田舎だな。」
一人の少年が笑う。
「何もない。」
ウラが眉をひそめる。
「あるよ。」
「何?」
「畑。」
「森。」
「川。」
少年は笑った。
「それしかない。」
アイラが少し後ろへ下がる。
その時。
少年が彼女を見る。
「その服。」
「変。」
アイラが俯いた。
胸が痛くなる。
前世。
教室で聞いた言葉と似ていた。
「その服、ダサい。」
「変。」
言葉は違う。
でも。
傷つける力は同じだった。
「変じゃない。」
俺が前へ出る。
少年がこちらを見る。
「何?」
「服は服だ。」
「アイラが変なんじゃない。」
少し間を置く。
「笑う方が変だ。」
周りが静かになる。
少年は少しムッとした。
「生意気。」
「別に。」
俺は肩をすくめる。
「笑われたら。」
アイラを見る。
「嫌だろ?」
小さく頷く。
「なら。」
少年を見る。
「やめた方がいい。」
少しだけ沈黙。
「……。」
少年は鼻を鳴らした。
「つまんない。」
そう言って離れて行った。
大喧嘩にはならなかった。
でも。
それで十分だった。
「ありがとう。」
アイラが呟く。
また。
ぎゅっ。
袖を握る。
「えへへ。」
ウラが腕を組む。
「また。」
「仕方ないじゃん。」
「……。」
「でも。」
ウラはアイラを見る。
少し考えて。
「今日は許す。」
アイラは驚いた顔をした。
「ほんと?」
「その代わり。」
ウラが俺を見る。
「帰りは三人で歩く。」
「もちろん。」
その一言で。
二人とも笑った。
夕方。
キャラバンは出発の準備を始める。
荷馬車へ荷物が戻る。
馬が鳴く。
村人が手を振る。
俺はガレスのところへ向かった。
「ありがとう。」
「何が?」
「地図。」
「世界を見せてくれて。」
ガレスは笑った。
「坊主。」
木箱をごそごそ漁る。
一冊の古い本を取り出した。
革の表紙。
角が擦り切れている。
「これ。」
「売り物じゃない。」
「え?」
「古すぎて誰も買わん。」
笑いながら差し出す。
「やる。」
「いいの?」
「字は読めるんだろ?」
俺は頷く。
「少しだけ。」
「なら。」
本を俺へ渡す。
「教えるのが好きなら。」
目を細める。
「まずは、自分も学べ。」
その言葉が胸に残った。
夜。
部屋へ戻る。
ランプを灯す。
古い本を開く。
『初級魔術理論』
表紙にはそう書かれていた。
知らない単語も多い。
難しい文章もある。
でも。
読める。
少しずつ。
一ページ。
また一ページ。
その瞬間。
俺は気づいた。
前世で数学を勉強していた時と同じ顔をしている。
分からないことを知る。
知らない世界へ踏み出す。
その楽しさは。
世界が変わっても変わらなかった。
窓の外を見る。
暗い夜空。
その向こうには。
王都がある。
海がある。
魔法学院がある。
まだ見ぬ景色がある。
羊皮紙の地図をもう一度広げる。
指で、小さな村をなぞる。
そして。
少しだけ外側へ指を滑らせた。
「いつか。」
静かに呟く。
「この地図の向こうまで歩いて行こう。」
その約束を。
夜空だけが静かに聞いていた。




