第五話 初めてのやきもち
朝の村には、不思議な魔法がある。
誰も呪文なんて唱えていない。
でも、朝日が屋根を照らし、煙突から煙が昇り、人々がお互いに「おはよう」と笑い合うだけで、この場所全体が生きているように見える。
五年前。
俺が目覚めた世界は、小さな木造の家だけだった。
今では、その外側にもたくさんの世界がある。
今日は父さんの見回りについて行ける日だった。
「準備できたか?」
「うん!」
腰に木剣を差す。
魔法の練習用に、小さな革袋も持った。
中には木炭や石ころ。
全部、自分なりの「勉強道具」だ。
「私も行く!」
後ろから聞こえる元気な声。
振り向けば、ウラが走ってくる。
「待ってよ!」
「遅い。」
「ラーズが早い!」
朝からいつもの調子だ。
父さんは笑いながら頷いた。
「今日は二人とも来るといい。」
村を歩く。
改めて見ると、本当に小さい。
家は二十軒ほど。
中央には井戸。
鍛冶屋。
パンを焼く小屋。
木工房。
畑。
羊。
鶏。
全部が歩いて回れる距離にある。
「父さん。」
「ん?」
「あの建物は?」
指差した先には、大きな納屋のような建物。
「あれは共同倉庫だ。」
「冬の食料?」
「そうだ。」
父さんはゆっくり説明してくれる。
「この村は一人では生きられない。」
「だから皆で蓄える。」
その言葉は、この村そのものだった。
誰かが病気になれば助ける。
誰かが怪我をすれば支える。
前世の東京では、隣人の顔も知らなかった。
ここでは違う。
この村全体が、一つの家族みたいだった。
「ラーズ先生!」
昨日教えた子どもたちだ。
「おはよう!」
「今日も勉強する?」
「午後ならね。」
「やったー!」
父さんが横で笑う。
「すっかり人気者だな。」
「からかわないでよ。」
少し照れる。
でも悪い気分じゃない。
村の北側へ向かう。
ここは昨日まで来たことがなかった。
木々が増える。
小川が流れている。
その時。
「……。」
何か聞こえた。
泣き声だ。
小さい。
怯えた声。
俺は足を止めた。
「父さん。」
「聞こえたか。」
父さんも表情を変える。
「行こう。」
泣き声の方へ走る。
木々の隙間。
そこには三人の男の子がいた。
年上だ。
七歳か八歳くらい。
一人の女の子を囲んでいる。
「返して!」
女の子が震えていた。
手には空っぽの籠。
「届くなら取ってみろ。」
男の子が笑う。
籠は木の枝に引っ掛けられていた。
「やめて!」
「泣くなよ。」
その笑い声を聞いた瞬間。
胸の奥が熱くなった。
前世の教室。
一人で泣いていた生徒。
誰にも助けを求められなかった子。
あの記憶が重なる。
気づけば。
身体が動いていた。
「やめろ。」
俺が前へ出る。
三人が振り向く。
「誰?」
「ラーズだ。」
「村長の息子。」
その一言で、少しだけ空気が変わる。
でも。
一番大きい少年が鼻で笑った。
「だから?」
「関係ない。」
「返して。」
俺は籠を見る。
高い。
木登りでは間に合わない。
なら。
魔法だ。
掌へ魔力を集める。
「風。」
小さな風が生まれる。
弱い。
でも十分だった。
枝が揺れる。
籠が落ちる。
俺は受け止めた。
「はい。」
女の子へ差し出す。
彼女は固まったままだった。
「……。」
「もう大丈夫。」
その瞬間。
父さんが前へ出た。
「何をしている。」
低い声。
三人の顔色が変わる。
「ち、違う!」
「遊んでただけ!」
「相手が泣いてる遊びは遊びじゃない。」
父さんの声は静かだった。
でも重かった。
三人は俯き、そのまま逃げるように走って行った。
静かになった。
女の子はまだ震えている。
俺はしゃがんだ。
「怪我してない?」
小さく頷く。
「名前は?」
少し沈黙。
そして。
「アイラ。」
本当に小さな声だった。
「アイラか。」
彼女は籠を抱きしめる。
「ありがとう。」
その声も震えていた。
「ラーズ。」
父さんが紹介する。
「この子たちは最近引っ越してきた家族だ。」
そうだったのか。
だから見たことがなかった。
「帰れる?」
アイラは頷いた。
でも。
歩き始めた瞬間。
ぎゅっ。
服が引っ張られた。
振り向く。
アイラが俺の袖を掴んでいた。
「え?」
慌てて離そうとする。
「ご、ごめんなさい。」
でも。
手が震えている。
怖かったんだ。
「いいよ。」
そう言うと。
彼女は少しだけ安心したように息を吐いた。
村へ戻る。
歩くたび。
ぎゅっ。
袖を握る小さな手。
最初は気になった。
でも。
離そうとは思わなかった。
その様子を。
一人だけ。
じっと見ている子がいた。
ウラだ。
「……。」
静かだ。
珍しい。
さっきまで元気だったのに。
「ウラ?」
「別に。」
早い。
歩く。
俺を追い越す。
(怒ってる?)
何かしたか?
分からない。
アイラの家は木工房の隣だった。
「ただいま。」
中から女性が飛び出す。
「アイラ!」
抱きしめる。
「どこ行ってたの!」
泣きながら頭を撫でる。
父さんが事情を説明する。
母親は何度も頭を下げた。
「ありがとうございます。」
「ラーズ君。」
「娘を助けてくれて。」
俺は首を振る。
「当然だから。」
その言葉を聞いて。
アイラはまた俺の袖を握った。
ぎゅっ。
「……。」
横を見る。
ウラ。
無表情。
怖い。
帰り道。
父さんは先に歩いていた。
俺とウラだけになる。
沈黙。
長い。
「……。」
耐えきれず話しかける。
「怒ってる?」
「怒ってない。」
怒ってる時の言い方だ。
「ごめん。」
「何に?」
「分からない。」
「じゃあダメ。」
難しい。
前世でも女の子の気持ちは分からなかった。
五歳になっても分からない。
「アイラ。」
ウラが急に止まる。
「ずっとラーズにくっついてた。」
「あ。」
そういうことか。
「怖かったんだと思う。」
「分かってる。」
「でも。」
彼女は少し俯く。
「ラーズは私と歩いてた。」
その一言で。
全部分かった。
寂しかったんだ。
置いていかれた気がしたんだ。
「ごめん。」
今度は本気で謝る。
「今度は。」
俺は手を差し出した。
「一緒に歩こう。」
ウラは少しだけ迷う。
ぷいっと横を向く。
「しょうがない。」
そう言いながら。
俺の手を握った。
「今回は許す。」
「ありがとう。」
「次はダメ。」
「うん。」
彼女は笑った。
いつもの笑顔だった。
夕焼け。
家へ帰る途中。
ふと後ろを見る。
木工房の前。
アイラがこちらを見ていた。
俺に気づくと。
恥ずかしそうに小さく手を振る。
俺も振り返す。
その隣で。
ウラが腕を組んだ。
「ふーん。」
「何?」
「何でも。」
でも。
手は離さなかった。
その温もりを感じながら歩く。
今日、この村は少しだけ広くなった。
新しい出会いがあった。
新しい気持ちも知った。
そして。
人生で初めて。
五歳の女の子の「やきもち」が、こんなにも可愛いものだということを知った。




