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第四話 小さな先生

「先生、私には無理です。」


その言葉だけは、今でも忘れられない。


◇◇◇


前世――。


教室の窓を叩く雨音を聞きながら、俺は一人の少女の机の前にしゃがんでいた。


数学の小テスト。


教室には放課後の静けさが広がっている。


他の生徒はもう帰った。


残っているのは、その少女だけだった。


「どうして無理だと思う?」


俺が尋ねると、彼女はうつむいたまま答えた。


「だって、何回やっても間違えるから。」


ノートには消しゴムの跡が何度も残っていた。


「私は頭が悪いんです。」


その一言が胸に刺さった。


「違う。」


俺はチョークを手に取った。


「できないんじゃない。まだ分からないだけだ。」


一つずつ。


本当に一つずつ。


数字を書き。


式を書き。


考え方を説明した。


四十分後。


「……できた。」


少女の目が大きく開く。


「先生!」


その笑顔は、小さかった。


でも、その日の俺にとって、一番眩しいものだった。


「ありがとう。」


あの日。


教師になってよかったと、初めて思えた。


「ラーズ。」


柔らかな声で意識が引き戻される。


木の天井。


朝日。


暖炉の匂い。


もう東京じゃない。


俺はラーズだ。


五歳。


「朝ご飯できたわよ。」


「今行く!」


ベッドから飛び降りる。


窓を開けると、朝の風が頬を撫でた。


鳥が鳴いている。


遠くで誰かが斧を振る音。


この村の朝は、本当に賑やかだ。


食卓には焼きたてのパンが並んでいた。


母さんがスープをよそる。


父さんは木のコップを置いた。


「今日は村の集会がある。」


「集会?」


「冬に向けた準備だ。」


そうか。


この世界にも季節がある。


当たり前だけど、実際に暮らしていると改めて実感する。


「ラーズ。」


父さんが笑う。


「今日は村のみんなも集まるぞ。」


「楽しみ!」


本心だった。


前世では地域の集まりなんて面倒だと思っていた。


今は違う。


人が集まること自体が嬉しい。


広場にはたくさんの村人が集まっていた。


荷車。


薪。


干し肉。


保存食。


子どもたちは走り回っている。


「ラーズ!」


「ウラ!」


いつものように彼女が駆け寄る。


今日は髪を小さく結んでいた。


「見て。」


彼女が胸を張る。


木の板を取り出した。


そこには何かが刻まれている。


「これ、お父さんが名前を書いてくれたの。」


近づいて見る。


木に彫られた文字。


少しいびつだ。


「読める?」


俺は頷いた。


「ウラ。」


「当たり!」


彼女が嬉しそうに笑う。


その時だった。


近くにいた男の子が首をかしげた。


「それ何て読むの?」


「読めない。」


別の子も言う。


「俺も。」


俺は少し驚いた。


(そうか。)


みんな読めるわけじゃないんだ。


集会が始まる。


大人たちは真面目な話をしている。


畑。


狩り。


冬支度。


その間、子どもたちは自由だった。


俺は地面にしゃがむ。


枝を一本拾う。


さらさら、と土に線を引く。


「ラーズ?」


ウラが覗き込む。


俺は彼女の名前を書いた。


ウラ。


「これ。」


「私?」


「うん。」


「名前?」


「そう。」


彼女は目を丸くした。


「もう一回書いて。」


俺はゆっくり書く。


一本目。


二本目。


曲線。


止め。


「やってみる。」


ウラが枝を持つ。


ぎこちない。


線が曲がる。


「あ。」


途中で失敗した。


「難しい。」


「大丈夫。」


自然に口から出た。


前世と同じ言葉。


「ゆっくり。」


「一画ずつ。」


彼女はもう一度挑戦する。


一本。


二本。


最後まで書けた。


少し形は違う。


でも。


ちゃんと読める。


「できた!」


その笑顔を見た瞬間。


胸が熱くなった。


(ああ。)


(この感じ。)


前世で教えていた時と同じだ。


「何してるの?」


子どもが一人増える。


「名前書いてる。」


「俺も!」


「私も!」


気づけば五人。


六人。


みんな枝を持っていた。


俺は土を大きく均す。


「順番ね。」


自然とそう言っていた。


「まず、自分の名前。」


「書けなくても大丈夫。」


「一緒にやろう。」


誰かが笑う。


誰かが真似する。


地面いっぱいに線が増えていく。


「ラーズ先生!」


突然そんな声が飛んだ。


「先生!」


「先生、見て!」


子どもたちが笑う。


俺は固まる。


先生。


その呼び方。


前世では毎日のように聞いていた。


でも。


ここでは初めてだった。


「……先生じゃないよ。」


笑いながら答える。


「ラーズでいい。」


「やだ。」


「先生!」


「先生!」


結局、その呼び方は広がってしまった。


「おーい。」


父さんの声。


振り向く。


集会が終わっていた。


「何をしてる?」


近づいてきた父さんは、地面を見て目を瞬かせた。


文字。


文字。


文字。


子どもたちが夢中で書いている。


「これは……。」


誰も答えない。


みんな集中している。


父さんは俺を見る。


「ラーズ。」


「うん?」


「お前が教えたのか?」


少しだけ緊張した。


「うん。」


怒られるだろうか。


勝手なことをした。


そう思った。


でも。


父さんは笑った。


「そうか。」


その笑顔は誇らしそうだった。


午後。


家へ帰る途中。


父さんが歩きながら話す。


「この村には学校がない。」


「うん。」


「昔は読み書きができる人が少なかった。」


なるほど。


だから。


子どもたちは文字を知らなかったんだ。


「でも。」


父さんは俺を見る。


「今日、みんな楽しそうだった。」


照れくさい。


「遊びみたいなものだよ。」


「遊びでもいい。」


父さんは頷く。


「学ぶことを嫌いにならないのが一番大事だからな。」


その言葉は。


教師だった俺にも響いた。


翌日。


庭へ出る。


誰もいないと思った。


「先生!」


いた。


ウラ。


その後ろに昨日の子たち。


「今日もやろ!」


思わず笑ってしまう。


「分かった。」


こうして。


二日目の授業が始まった。


今日は少し工夫した。


板切れを拾う。


炭を砕く。


木炭で文字を書く。


「土より消えない。」


「すごい!」


子どもたちは目を輝かせた。


「でも。」


俺は一本指を立てる。


「きれいに書くより。」


一人ずつ顔を見る。


「読めることが大事。」


その考え方は。


前世から変わらない。


「ラーズ。」


父さんが呼ぶ。


「ちょっと来い。」


家の裏。


誰もいない。


父さんはしゃがんだ。


「一つ聞いていいか。」


「うん。」


少し間が空く。


「お前。」


父さんは優しく笑う。


「教えるのが好きなのか?」


その質問に。


考えるより先に答えが出た。


「うん。」


胸に手を当てる。


「誰かが。」


自然と言葉が続く。


「『できた』って笑うのを見るのが好き。」


父さんは何も言わなかった。


ただ。


俺の頭を大きな手で撫でた。


「そうか。」


その手は温かかった。


夕焼け。


広場には今日も笑い声が響く。


木の板を抱えた子どもが母親へ走る。


「見て!」


「名前書けた!」


母親が目を潤ませる。


「すごいじゃない。」


その光景を見た瞬間。


前世の教室。


雨の日。


「先生、できた。」


あの少女の笑顔が重なった。


違う世界。


違う人生。


それでも。


人が何かをできるようになった時の笑顔は。


きっと、どの世界でも同じなんだ。


夕焼けに染まる村を見つめながら、俺は静かに笑った。


この世界での俺は、まだ五歳だ。


でも。


誰かの「できた」を増やせるなら。


きっと。


教師だった俺の人生も。


無駄じゃなかったんだ。

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