第三話 五年越しの朝
雨の日が嫌いだった。
いや。
正確には、雨そのものが嫌いだったわけじゃない。
雨の日になると、いつも同じ景色を思い出す。
灰色の空。
濡れたアスファルト。
コンビニのビニール傘。
そして、誰にも気づかれない自分。
◇◇◇
「先生、お疲れ様でした。」
「はい、お疲れ様。」
その日も授業を終えた俺――ルーク・アージェットは、教室の明かりを消した。
時計を見る。
午後七時四十分。
本来なら、とっくに帰宅している時間だった。
だが、机の上には小テストの山。
職員室には誰もいない。
みんな帰った。
「はぁ……。」
誰に聞かせるでもないため息。
赤ペンを持つ指が痛い。
目も疲れている。
それでも仕事は終わらない。
最後の答案を書類棚へしまい、学校を出た頃には、外は土砂降りになっていた。
財布を見る。
残金は千円札が一枚。
給料日まであと四日。
「傘を買うのももったいないな。」
苦笑しながら雨の中を歩く。
シャツはすぐに濡れた。
靴の中まで水が入り込む。
駅前では、家族連れが笑いながら歩いていた。
父親が子どもを肩車している。
母親が濡れた髪を拭いてあげている。
その何気ない光景が、胸を締めつけた。
「いいな。」
思わず呟いた。
誰にも聞こえないくらい小さな声だった。
家へ帰っても、待っているのは冷えた部屋だけ。
電子レンジで温めたコンビニ弁当。
テレビの音。
そして、眠るだけの毎日。
あの日。
俺は本気で思った。
「人生って、こんなものなのかな。」
――でも。
違った。
あの火事の日が。
全部を変えた。
◇◇◇
「ラーズ!」
明るい声で目を開ける。
木の天井。
朝日。
暖炉から漂う薪の香り。
「……夢か。」
前世の記憶は、今でも時々夢になる。
もう五年経った。
それでも忘れられない。
忘れたくもない。
あの孤独があったからこそ。
今の幸せが分かる。
「まだ寝るの?」
母さんが笑う。
「起きる!」
布団から勢いよく飛び起きる。
五年前とは違う。
ちゃんと身体が動く。
足も。
腕も。
首も。
自由だ。
「顔を洗ってきなさい。」
「はーい!」
木の床を裸足で走る。
父さんが新聞のような羊皮紙を読んでいた。
「おはよう、ラーズ。」
「おはよう、父さん!」
その一言を返せるだけで嬉しい。
前世では。
誰かに「おはよう」と返す相手なんて、ほとんどいなかったから。
◇◇◇
朝食は焼いたパンだった。
野菜のスープ。
干し肉。
そして、ヤギのミルク。
「いただきます。」
この世界にその言葉はない。
だから自然と前世の癖で呟く。
「それ、また変な言葉。」
母さんが笑った。
「あ、えっと。」
誤魔化すようにパンをかじる。
危ない。
前世の言葉は口に出さないよう気をつけている。
誰にも話せない。
俺が転生者だなんて。
絶対に。
◇◇◇
食後。
父さんが立ち上がる。
「今日は畑を見る。そのあと見回りだ。」
「僕も行っていい?」
「もちろん。」
思わず笑顔になる。
外へ出られる。
この世界をもっと知れる。
それだけで胸が躍った。
◇◇◇
村は朝から活気に満ちていた。
煙突から煙。
井戸で水を汲む女性。
畑を耕す老人。
子どもたちは木の棒を剣に見立てて遊んでいる。
「ラーズ!」
聞き慣れた声。
振り向く。
銀色に近い淡い髪。
丸い瞳。
少し眠そうな顔。
「ウラ。」
彼女が駆け寄ってくる。
「また寝坊?」
「違う!」
「絶対寝坊。」
「違うって!」
笑う。
たったそれだけで楽しい。
前世では。
こんな他愛ない会話すらほとんどなかった。
◇◇◇
「今日は魔法の練習する?」
ウラが聞く。
「もちろん。」
村の外れ。
大きな木の近く。
ここが子どもたちの練習場所だった。
俺たちは地面に向き合う。
深呼吸。
父さんに教わった通り。
まずは魔力を感じる。
体の中。
温かい流れ。
それを掌へ集める。
「火。」
小さな火が灯る。
親指ほど。
揺れる炎。
「やった!」
ウラも負けじと魔法を使う。
ぽん。
小さな水玉。
「見て!」
「すごい!」
二人で笑った。
まだ基礎魔法だけ。
火。
水。
風。
土。
ほんの少し動かせる程度。
でも。
俺には十分だった。
前世では。
魔法なんて空想だった。
今は。
掌の上で炎が踊っている。
「次は風。」
魔力を流す。
ふっ。
そよ風が葉っぱを揺らす。
「上手。」
ウラが拍手する。
少し照れた。
褒められるのは。
まだ慣れない。
◇◇◇
昼頃。
父さんが俺たちを呼ぶ。
「ラーズ。」
「はい!」
「魔法は便利だ。」
父さんは真面目な顔になる。
「でも。」
手を地面へ向けた。
土が少しだけ盛り上がる。
「便利だからこそ。」
盛り上がった土が元へ戻る。
「人を守るために使え。」
その言葉が胸に残る。
前世の俺なら。
力を持ったら何を考えただろう。
認められたい。
羨ましがられたい。
そう思ったかもしれない。
でも今は違う。
守りたい。
この人たちを。
この村を。
その気持ちの方が強かった。
◇◇◇
午後。
俺は一人で庭へ出た。
木の枝を拾う。
剣代わり。
ぶん。
遅い。
もう一回。
ぶん。
また。
また。
前世で運動なんてほとんどしなかった。
だからこそ。
今のうちに身体を鍛えたい。
魔法だけじゃない。
身体も。
父さんみたいに。
強くなりたい。
「頑張ってる。」
振り返る。
ウラが座って見ていた。
「笑わないの?」
「なんで?」
「変だから。」
「変じゃない。」
彼女は首を振る。
「ラーズって。」
少し考えて。
笑った。
「大人みたい。」
心臓が止まりそうになった。
「え?」
「たまに難しい顔する。」
しまった。
無意識だった。
前世の癖。
考え込みすぎる癖。
「そうかな。」
「うん。」
ウラは首を傾げる。
「でも。」
花みたいな笑顔。
「そういうラーズも好き。」
その一言で。
胸の奥が少しだけ熱くなった。
◇◇◇
夕暮れ。
鐘が鳴る。
村人が家へ帰る。
煙が空へ昇る。
夕焼けが村を赤く染める。
俺は丘の上から景色を見ていた。
前世では。
この時間が一番嫌いだった。
一日が終わる。
また明日。
同じ毎日。
でも今は違う。
帰る家がある。
待ってくれる家族がいる。
笑ってくれる友達がいる。
「ラーズ。」
父さんが手を振る。
「帰るぞ。」
「うん!」
走り出す。
家へ。
俺の家へ。
五年前。
炎の中で終わった人生。
あの時は。
何も持っていないと思っていた。
でも。
失ったからこそ。
今、手に入れたものの大切さが分かる。
この世界で生きる。
家族と笑う。
友達と歩く。
そしていつか。
誰かの人生も守れる人になる。
夕焼けの空を見上げながら。
俺は静かに拳を握った。
今度こそ。
この幸せを。
絶対に失わない。




