第二話 泣くことしかできない僕
夜は静かだった。
静か――そう思っていたのは、前世の感覚だったのかもしれない。
耳を澄ませると、この家には音が溢れている。
薪が暖炉の中ではぜる音。
風が木の壁を優しく撫でる音。
遠くから聞こえる犬の鳴き声。
誰かが歩く床板の軋み。
全部、前の世界では気にも留めなかった音だった。
(……俺、本当にここにいるんだ。)
ゆっくりと目を開ける。
視界は相変わらずぼやけていた。
輪郭は見える。
光と影も分かる。
でも、人の顔は水の中から眺めているみたいに曖昧だ。
首を動かそうとする。
動かない。
「う……」
情けない声が漏れた。
思い切り力を入れてみる。
少しだけ顎が揺れた。
それだけだった。
(全然ダメだ。)
赤ん坊の身体は、自分が思っていた以上に不自由だった。
腕を上げる。
いや、上げようとする。
右腕が数センチ浮き、そのまま重力に負けて布団へ落ちた。
ぱたん。
「……。」
前世なら呼吸するくらい簡単な動作なのに。
指一本動かすことすら難しい。
その事実が、少しだけ怖かった。
(俺は今、本当にゼロからなんだ。)
足音が近づく。
柔らかい布が擦れる音。
ふわりと甘い香りがした。
母さんだ。
まだ名前は知らない。
でも、この香りだけはもう覚え始めていた。
木の実みたいな優しい匂い。
どこか温かくなる匂い。
「ラーズ。」
優しい声。
その声を聞くだけで胸が落ち着く。
前世では誰かに名前をこんなふうに呼ばれた記憶が、ほとんどない。
母さんが俺を抱き上げる。
身体がふわっと浮いた。
最初はこの浮遊感が怖かった。
でも今は違う。
ちゃんと支えてくれるって分かっている。
(すごい。)
抱き方が上手い。
当たり前なのかもしれない。
でも前世の俺は子供を抱いたことなんて一度もなかった。
首を支えて。
背中を包むように抱えて。
自然に身体が安定する。
「お腹空いたの?」
その言葉の意味は完全には理解できない。
でも何となく分かる。
声色で。
表情で。
雰囲気で。
人間って、本当は言葉だけで会話してるわけじゃないんだな。
空腹。
その感覚は突然やってくる。
さっきまで平気だったのに。
急に胸の奥がそわそわして。
身体が落ち着かなくなる。
どうすればいい。
伝えたい。
「……っ!」
言葉にならない。
代わりに出たのは。
「おぎゃああああ!」
(違う違う違う!)
泣くつもりじゃなかった。
でも勝手に泣いた。
涙まで出てくる。
止められない。
恥ずかしい。
二十八歳の男が。
いや、今は赤ん坊だけど。
頭の中では必死に冷静でいようとしているのに、身体が全部無視する。
母さんは慌てなかった。
「はいはい。」
優しく揺らす。
背中をぽんぽん叩く。
「今あげるからね。」
その声を聞くだけで、不思議と安心する。
(すごいな。)
俺よりずっと落ち着いてる。
当然か。
母親なんだから。
でも、その当然が俺には眩しかった。
食事を終える頃には、身体中から力が抜けていた。
眠い。
さっきまで頭は冴えていたのに。
急に意識が沈んでいく。
(待て。)
まだ考えたい。
この世界のこと。
家族のこと。
俺自身のこと。
でも。
眠気は容赦なかった。
世界が暗くなる。
目を覚ます。
どれくらい寝た?
分からない。
時計がない。
そもそも読める時計があるかも知らない。
また眠る。
また起きる。
赤ん坊の一日は、この繰り返しだった。
(これが普通なのか。)
前世では八時間寝ても眠かった。
今は一時間ごとに眠くなる。
身体が勝手に成長しようとしているんだろう。
昼頃。
今度は父さんが俺を抱いた。
大きな手だった。
少しごつごつしている。
剣を握る手。
農具を持つ手。
そんな感じがする。
「ラーズ。」
父さんは少し照れくさそうに笑った。
母さんみたいに慣れていない。
抱き方も少しぎこちない。
でも。
そのぎこちなさが、何だか嬉しかった。
「今日も元気だな。」
俺の手を指でつつく。
反射的に握った。
「お?」
父さんの目が丸くなる。
「見てくれ!」
母さんを呼ぶ。
「握ったぞ!」
「まあ!」
二人が笑う。
そんなことで。
そんな小さなことで。
こんなに嬉しそうに笑うんだ。
胸が熱くなった。
前世では。
誰かが俺の小さな成長を喜んでくれたことなんて。
あっただろうか。
思い出せない。
(……この世界では。)
(この人たちを悲しませたくない。)
その気持ちだけは、はっきりしていた。
父さんは俺を窓の近くまで連れて行った。
外が見える。
ぼやけている。
でも。
色は分かる。
青い空。
緑。
土色。
石造りじゃない。
木の家が並んでいる。
煙突から煙が上がる。
人が歩く。
子供が走る。
笑い声。
鳥。
風。
(ゲームじゃない。)
(本物だ。)
前世では異世界なんてフィクションだった。
今は違う。
空気に匂いがある。
土に湿り気がある。
光に温度がある。
全部、本物だった。
午後。
俺は一人で天井を見つめていた。
いや。
一人じゃない。
家族は近くにいる。
でも手も足も自由に動かせない俺にできることは少ない。
(よし。)
訓練しよう。
右手。
上げる。
ぷるぷる。
五センチ。
落ちる。
もう一回。
三センチ。
落ちる。
また。
また。
また。
何十回繰り返しただろう。
成果は小さい。
でもゼロじゃない。
前世で数学を教えていた頃。
「才能より積み重ねだ。」
そう生徒に言っていた。
なら。
自分にも言えるはずだ。
一回。
また一回。
この身体は。
少しずつ俺のものになる。
夕方。
村の鐘らしき音が聞こえた。
ゴーン。
ゴーン。
家の外から人の話し声が増える。
畑から帰ってきた人たちだろう。
父さんと母さんも窓から外を見ていた。
「あの人たち、今日も無事だったね。」
「うん。」
短いやり取り。
でも。
そこには安心があった。
この村は大きくない。
だからこそ、一人ひとりの帰宅が嬉しいんだ。
前世の東京では。
隣人が帰ってきても気づかなかった。
ここでは違う。
誰かが帰ること自体が幸せなんだ。
その温かさを感じながら、俺は小さく拳を握った。
まだ何もできない。
泣くことしかできない。
でも。
いつか歩けるようになったら。
いつか話せるようになったら。
この村を。
この家族を。
笑顔にできる人間になりたい。
その願いだけは。
もう二度と忘れない。




