第一話 新しい人生
目覚めた瞬間から、気分は最悪だった。
いや、それはもう特別なことではない。
毎朝六時になると目覚ましが鳴り、まるで魂だけが身体より数分遅れて起きるような感覚に襲われる。
狭い渋谷のアパートでゆっくりと身体を起こし、何もない白い天井をぼんやり見つめた。
また一日が始まる。
昨日と変わらない一日が。
俺の名前はルーク・アージェット。
二十八歳。
渋谷にある学校で数学教師として働いている。
給料は生活費を払えばほとんど残らず、この狭いコンクリートの部屋へ帰れば待っているのは静寂だけだった。
家族はいない。
恋人もいない。
友人もほとんどいない。
ため息をつきながら、インスタントコーヒーを淹れる。
「……ひどい人生だ。」
自然と口から漏れた。
昔は違う未来を思い描いていた。
「おかえり」と迎えてくれる誰かがいて。
夕食を囲みながらくだらない話で笑い合って。
娘が廊下を走り回ったり、息子が数学を教えてほしいと頼ってきたり。
そんな日々を夢見ていた。
でも、それはずっと夢のままだった。
苦笑する。
気楽に話せる相手といえば、配達に来る女性くらいだ。
「おはようございます、先生。」
「おはようございます。」
交わす言葉はそれだけ。
笑顔を交わして、それぞれの日常へ戻っていく。
数時間後、身支度を整え、鞄を持って玄関へ向かった。
その瞬間だった。
ドォォンッ!!
建物全体が激しく揺れた。
窓ガラスが震え、耳鳴りが響く。
「な、何だ?」
慌てて部屋を飛び出す。
見上げた先で、血の気が引いた。
俺の部屋の真上の部屋が炎に包まれていた。
黒煙が窓から噴き出し、木材が崩れ落ちていく。
悲鳴が響く。
階段から、一人の女性がよろめきながら飛び出してきた。
息も絶え絶えになりながら叫ぶ。
「お願いです! 助けて!」
その場に崩れ落ち、涙を流しながら叫んだ。
「娘が……娘がまだ上にいるんです!」
その悲痛な叫びが胸を貫いた。
周囲では誰かが消防へ通報していた。
叫ぶ者もいた。
けれど誰も上へ行こうとはしない。
その時だった。
頭で考えるより先に、身体が動いていた。
俺は走った。
玄関をくぐった瞬間、熱気が全身を襲う。
息を吸うたび肺が焼けるようだった。
「誰かいるか!」
返事はない。
聞こえるのは燃え盛る炎の音だけ。
煙で視界が霞む中、さらに上へ駆け上がる。
心臓が激しく鳴る。
その鼓動すらかき消されそうなほど、大きな音が建物中に響いていた。
その時。
かすかな泣き声が聞こえた。
「ママ……」
俺は振り向き、その声を追う。
半ば崩れた部屋の隅。
倒れたベッドの陰に、小さな女の子が震えながら座っていた。
煙で目を真っ赤にしている。
「大丈夫だ。」
膝をついて声をかける。
「もう安心しろ。」
近くに落ちていた毛布で彼女を包み込み、そのまま抱き上げた。
「行こう。」
出口へ向かって走る。
一歩ごとに足取りが重くなる。
天井が軋む。
壁が悲鳴を上げる。
建物そのものが崩れようとしていた。
ようやく出口が見えた。
あと少し。
そう思った瞬間。
上から轟音が響いた。
反射的に見上げる。
遅かった。
巨大な梁が落ちてくる。
考える時間などなかった。
少女を強く抱きしめ、一瞬だけ息を止める。
そして――
「受け取ってください!」
少女を母親の方へ投げた。
母親は必死にその子を抱き留める。
二人は床へ倒れ込んだ。
助かった。
少女は生きている。
安心した、その瞬間だった。
世界が俺の上へ崩れ落ちた。
身体が急に重くなる。
動けない。
人々の声が遠ざかっていく。
誰かが俺へ駆け寄ってくる。
けれど、その姿は少しずつ霞んでいく。
暗い。
何も見えない。
「これで……死ぬのか。」
意識が途切れそうになる。
こんな終わり方なんて望んでいなかった。
家族も。
友達も。
何一つ手に入れられないまま。
「俺は……」
「死にたくない。」
その瞬間。
一筋の光が意識を貫いた。
目を開けた。
……いや。
本当に目を開けたのかさえ分からない。
そこは果てしない闇だった。
地面もない。
空もない。
身体さえ感じない。
静寂だけが広がる世界。
その中で、一つの声が響いた。
「生きるか――死ぬか。」
意味が分からなかった。
そんなこと、決まっている。
「生きたい。」
そう願った瞬間。
闇が光に飲み込まれた。
耳に届いたのは泣き声だった。
それは誰かの泣き声ではない。
俺自身の泣き声だった。
「待て……」
「この泣き声……」
周囲から別の声が聞こえる。
「男の子ですよ。」
「まあ、なんて可愛い。」
何が起きている。
説明してくれ。
口を開く。
「……」
出てきたのは赤ん坊の泣き声だけだった。
手を動かそうとする。
小さい。
信じられないほど小さい。
全身が軽く、そして弱い。
「この子の名前は――ラーズ。」
ラーズ?
俺の名前?
頭が真っ白になる。
周囲を見る。
木造の家。
見たこともない服装。
ここは渋谷じゃない。
胸が大きく脈打つ。
「まさか……」
「転生したのか?」
ライトノベルでは何度も読んできた展開だ。
主人公が死に、異世界で新たな人生を始める。
まさか自分がそうなるなんて思わなかった。
腕を動かそうとしても思うように動かない。
本当に赤ん坊なんだ。
ゆっくり息を吐く。
もし本当にもう一度人生をやり直せるのなら。
今度こそ。
違う人生を生きよう。
数日が過ぎた。
育ててくれる二人は、とても優しかった。
会話を聞いている限り、この小さな村の長を務めているらしい。
いつも笑ってくれる。
大事そうに抱きしめてくれる。
俺が生まれたことを心から喜んでくれている。
母に抱かれるたび、胸が温かくなる。
「これが……家族なんだ。」
心の中で静かに誓った。
今度こそ。
この人たちを守ろう。
後悔のない人生を生きよう。
ある日、家に客がやって来た。
夫婦が、生まれたばかりの女の子を抱いて入ってくる。
「どうぞ、お入りください。」
「ありがとうございます。」
二人は赤ん坊を俺の隣の揺りかごへ寝かせた。
その子は、何もかもを観察している俺とは違い、とても穏やかな子だった。
大人たちが話し始める。
「娘さんのお名前は?」
「ウラ、と名付けました。」
「素敵なお名前ですね。」
俺は隣の赤ん坊を見つめる。
穏やかな寝顔だった。
心の中で微笑む。
「ウラ。」
「いつか仲のいい友達になれたらいいな。」
大人たちは食卓を囲み、村の話を続ける。
時間はゆっくり流れ、夜は静かに更けていった。
やがて帰る時間になる。
「それでは。」
「またいらしてください。」
扉が閉まる。
家の中は再び静けさに包まれた。
俺はゆっくり目を閉じる。
最初の人生は炎の中で終わった。
だけど、この二度目の人生は――
まだ始まったばかりだ。




