第二十八話 帰ってきた姉
「人は、本当に会いたい人ほど、名前を呼ぶのが怖くなる。」
前世で卒業生が学校へ遊びに来ることがあった。
「先生!」
そう叫んで走ってくる子もいれば、教室の前で立ち止まる子もいた。
「入っていいかな。」
もう卒業しているのに、遠慮してしまう。
会いたかった人ほど、最初の一歩は不思議なくらい重い。
きっと。
失うのが怖いからだ。
朝。
村の空気が少し違った。
「今日だ。」
ガドが門の方を見る。
王国騎士団の見張りが街道を見つめていた。
遠く。
砂埃が上がる。
馬車。
昨日の野営地から動き出した一行だ。
俺は胸がざわつく。
理由は分からない。
でも。
どこかで。
「来る。」
そんな気がしていた。
街道。
馬車がゆっくり止まる。
最初に降りたのはレオン隊長。
その後ろ。
紺色のローブ。
白銀の髪。
風に揺れる。
「……。」
見覚えがある。
でも。
記憶より少し背が高い。
少し大人になっている。
リスだった。
リスは立ち止まった。
村を見る。
焼けた家。
崩れた門。
墓標。
足が動かない。
「リス。」
セレナが静かに呼ぶ。
返事はない。
ゆっくり歩き出す。
一歩。
また一歩。
そして。
墓標の前で膝をついた。
「父さん。」
手が震える。
「母さん。」
木の墓標へ触れる。
涙が止まらない。
誰も声を掛けなかった。
風だけが吹いていた。
レオンは帽子を取る。
エレインは静かに目を閉じる。
村人たちも黙っていた。
その時間は。
誰にも壊せなかった。
俺は少し離れた場所から見ていた。
「あの人。」
ウラが小さく聞く。
「リス。」
答えながら。
胸が苦しくなる。
知っている。
知っているはずなのに。
会った記憶はほとんどない。
赤ちゃんだった頃。
少しだけ抱っこされた。
それだけ。
でも。
家にはいつも姉の話があった。
「リスなら。」
「リスが帰ったら。」
その人が。
目の前にいる。
リスがゆっくり立ち上がる。
涙を拭く。
そして。
オルムへ聞く。
「ラーズは。」
オルムは何も言わない。
ただ。
俺の方を見た。
リスも振り向く。
目が合った。
時間が止まる。
「……。」
リスの唇が震える。
信じられない。
そんな顔だった。
俺も動けない。
次の瞬間。
「ラーズ!」
走る。
速い。
そのまま。
俺を抱きしめた。
息が詰まるくらい強かった。
肩が震えている。
泣いている。
「生きてる。」
何度も繰り返す。
「よかった。」
「本当に。」
「生きてる。」
その声を聞いて。
俺も涙が出た。
「姉ちゃん。」
初めて。
自然にそう呼べた。
リスは少し笑う。
涙だらけの顔で。
「うん。」
「お姉ちゃんだよ。」
しばらく。
誰も話さなかった。
ウラが少し照れたように視線を逸らす。
アイラは目をこすっていた。
セレナは小さく微笑む。
「やっと会えた。」
その一言だけだった。
午後。
リスは家だった場所を見て回る。
焼けた壁。
地下室。
母さんが最後に閉めた扉。
指先で黒く焦げた木を撫でる。
「ここで。」
小さく呟く。
俺は頷く。
「守ってくれた。」
リスは目を閉じた。
「母さんらしい。」
少し笑う。
でも。
涙はまた落ちた。
「これ。」
俺はポケットから取り出す。
銀色の葉じゃない。
父さんの槍の折れた穂先。
リスが目を見開く。
「残ってたの。」
「ガドさんが。」
渡してくれた。
リスは両手で受け取る。
しばらく黙って見つめる。
「父さん。」
少し笑う。
「最後まで。」
「らしいね。」
夕方。
荷物を整理していると。
ガドが一つの木箱を運んできた。
「これ。」
「ガレスのだ。」
父さんの遺品。
開ける。
地図。
古い本。
革袋。
壊れた方位石。
そして。
一枚の大きな地図。
リスが広げる。
「これ。」
「見たことある。」
王国北部の地図だった。
でも。
一か所だけ。
赤い印がある。
森の奥。
大樹よりさらに北。
「父さん。」
俺が聞く。
「行こうとしてた?」
リスは首を振る。
「分からない。」
「でも。」
指で印をなぞる。
「この印。」
「父さんが付けた。」
その確信だけはあった。
オルムも頷く。
「ガレスは。」
「死ぬ一か月くらい前から。」
「あの地図をよく見てた。」
新しい謎だった。
今は。
まだ行けない。
でも。
忘れちゃいけない気がした。
夜。
焚き火。
リスが俺を見る。
「ラーズ。」
「うん。」
「魔法。」
「教えて。」
少し照れる。
「まだ。」
「風だけ。」
リスは笑う。
「見せて。」
俺は枝を構える。
呼吸。
流れ。
風。
ビューッ。
小さな渦が枝の周りを回る。
数秒。
消えた。
リスは目を丸くする。
「六歳で。」
「維持詠唱。」
信じられない。
そんな顔だった。
エレインも横で見ていた。
何も言わない。
でも。
杖を握る手が少し止まった。
普通じゃない。
そう思ったらしい。
それでも。
理由は分からない。
深夜。
村のみんなが眠った頃。
リスは一人で父さんたちの墓へ向かった。
月明かり。
静かな夜。
その時。
風が吹く。
銀色の葉が一枚。
墓標の上へ落ちた。
リスはそっと拾う。
「ありがとう。」
誰へ向けた言葉だったのか。
自分でも分からなかった。
遠く。
大樹の上。
コロは静かにその光景を見つめていた。
その隣。
白い鹿がゆっくり目を閉じる。
まるで。
ようやく一つの家族が。
もう一度。
同じ空の下で繋がれたことを祝福するように。




