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第二十六話 灰狼の爪痕

「勇気は、怖くないことじゃない。」


前世で、避難訓練を担当したことがある。


「先生。」


一人の生徒が聞いた。


「先生は怖くないんですか?」


少し笑った。


「怖いよ。」


「でも。」


笛を握る。


「怖い時ほど、周りを見なきゃいけない。」


その子は不思議そうな顔をした。


今なら分かる。


恐怖は視界を狭くする。


だから。


強い人ほど、最初に周りを見る。


朝。


村の鐘が鳴った。


以前のような穏やかな合図じゃない。


短く三回。


「集まれ。」


という意味だった。


広場へ行く。


ガド。


オルム。


狩人たち。


全員の顔が少し険しい。


「何かあった?」


俺が聞く。


ガドは地面を指差した。


そこには。


大きな足跡。


灰牙狼だった。


でも。


前に見たものより大きい。


「昨夜。」


ガドが言う。


「畑が荒らされた。」


「一匹だけ。」


「群れじゃない。」


それが逆に嫌だった。


「討伐する。」


オルムが静かに言う。


「放っておけば。」


「また来る。」


村人たちは頷く。


俺も聞いていた。


すると。


ガドが俺を見る。


「ラーズ。」


「来るか。」


ウラが驚く。


「え?」


「危ない!」


ガドは続ける。


「戦わせるためじゃない。」


「見せるためだ。」


父さんなら。


きっと同じことをした。


守るだけじゃなく。


教える。


俺は頷いた。


「行く。」


出発したのは五人。


ガド。


狩人二人。


若い農夫一人。


そして。


俺。


ウラは納得していなかった。


「ずるい。」


頬を膨らませる。


「私も。」


「まだダメ。」


ガドが即答する。


「今回は見学でも危険だ。」


「ラーズだけ。」


「もっとずるい。」


俺は苦笑した。


「帰ったら。」


「木剣の勝負。」


「約束。」


それでようやく少し機嫌を直した。


森の手前。


ガドがしゃがむ。


「見ろ。」


足跡。


折れた枝。


削られた樹皮。


「全部。」


「言葉だ。」


俺は目を凝らす。


「爪。」


「深い。」


「大きい。」


ガドが頷く。


「続けろ。」


「走ってない。」


「歩いてる。」


「どうして?」


少し考える。


「急いでない。」


「そうだ。」


父さんを思い出した。


同じ教え方だった。


答えをくれない。


考えさせる。


さらに進む。


風向きが変わる。


ガドが手を上げた。


全員止まる。


「匂う。」


俺も鼻を動かす。


獣臭。


血。


少し腐った匂い。


「近い。」


ガドが囁く。


「声を出すな。」


心臓が速くなる。


怖い。


でも。


視界は狭めない。


周りを見る。


父さん。


いや。


ガドの教えだった。


茂みの向こう。


いた。


灰牙狼。


以前より一回り大きい。


右肩に黒い筋。


目が少し濁っている。


「あれ。」


狩人が小さく呟く。


「瘴気。」


黒い筋は。


腐敗じゃない。


魔力だった。


ガドは槍を構える。


でも。


飛び出さない。


狼を見る。


風を見る。


草を見る。


「ラーズ。」


「はい。」


「風。」


「右から。」


俺も感じる。


「うん。」


「だから?」


少し考える。


狼の鼻。


風。


「匂いが届く。」


「そうだ。」


正面から行けば。


気づかれる。


「回る。」


俺が言う。


ガドが笑った。


「正解だ。」


全員が右へ回る。


静かに。


ゆっくり。


その時。


パキッ。


若い農夫が枝を踏んだ。


狼の耳が動く。


「しまっ。」


遅い。


狼が振り向く。


目が合う。


ガァァッ!!


飛ぶ。


速い。


ガドが前へ出る。


槍。


一突き。


狼は空中で身体を捻る。


避けた。


「速い!」


狩人の矢。


外れる。


狼が横へ回る。


その時。


俺は見た。


右足。


少しだけ。


踏み込みが浅い。


怪我。


「右!」


叫ぶ。


ガドが反応する。


狼が右へ体重を乗せる瞬間。


槍を低く振る。


ドン!


足へ当たる。


狼が崩れる。


「今!」


狩人の矢。


肩。


もう一本。


首。


最後。


ガドの槍が心臓を貫いた。


静かになった。


「はぁ……。」


全員息を吐く。


俺も膝へ手をつく。


怖かった。


本当に。


怖かった。


ガドが狼を見る。


「右足。」


俺を見る。


「よく見てた。」


少し照れる。


「偶然。」


「違う。」


ガドは笑う。


「観察だ。」


その言葉が嬉しかった。


狼を調べる。


黒い筋。


近くで見ると。


皮膚の下へ黒い結晶ができている。


「これは。」


狩人が首を振る。


「昔はなかった。」


ガドが短剣で少し削る。


結晶は灰になる。


でも。


その瞬間。


俺の掌。


銀色の魔力が少しだけ震えた。


誰にも気づかれない。


俺だけが。


違和感を覚えた。


「反応した。」


どうして。


分からない。


ノートへ書かなきゃ。


帰り道。


空は夕焼けだった。


狼の毛皮を荷車へ積む。


村人たちが迎える。


「戻った!」


子どもたちが駆け寄る。


ウラが真っ先に来た。


「怪我!」


俺の腕を見る。


「ない。」


「本当?」


「うん。」


安心したように息を吐く。


でも。


次の瞬間。


ポカッ。


頭を叩かれた。


「心配した。」


「ごめん。」


素直に謝る。


アイラが笑う。


「ウラ。」


「お母さんみたい。」


「違う!」


顔を真っ赤にする。


久しぶりに。


みんなで笑った。


夜。


ノートを開く。


観察記録 七


灰牙狼は瘴気で変質していた。


足跡は歩き方まで教えてくれる。


風向きは戦いを変える。


怖い時ほど周りを見る。


黒い結晶に銀色の魔力が反応した。


最後に。


少しだけ考える。


そして書く。


魔法は強さだけじゃない。見ることも力なんだ。


ページを閉じる。


その夜。


大樹の根元。


コロは静かに座っていた。


その隣には。


あの白い鹿。


月明かりの中。


鹿は村を見つめる。


そして。


一度だけ。


ラーズの家の方へゆっくり頭を下げた。


まるで。


六歳になった少年が、一歩前へ進んだことを祝福するように。

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