第二十一話 銀葉の約束
「信頼って、教えるものじゃない。」
教師になって三年目。
学校の裏庭に、一匹の野良猫が住み着いた。
誰かが餌をあげようとすると逃げる。
触ろうとすると、もっと逃げる。
でも、一人だけ例外がいた。
毎朝、何も持たずに猫の近くへ座る女子生徒。
話しかけるだけ。
触ろうともしない。
一週間。
二週間。
一か月。
ある日、猫の方から彼女の膝へ乗った。
その子は笑って言った。
> 「先生。」
> 「友達になるのって、待つことなんですね。」
あの時は笑って頷いただけだった。
今なら、その言葉の意味が少し分かる。
朝の空気は冷たかった。
灰の匂いは薄くなった。
代わりに、湿った土の匂いが戻り始めている。
「春。」
ウラが空を見上げる。
「来るかな。」
「来る。」
そう答えながら、自分でも少し驚いた。
昨日までなら。
「分からない。」
そう言っていたかもしれない。
でも。
あの銀色の葉を受け取ってから。
少しだけ。
未来を信じてみたいと思えるようになっていた。
村の復旧は少しずつ進んでいた。
倒れた柵は半分立ち直った。
井戸も普通に使える。
子どもたちの声も、ほんの少し戻ってきた。
でも。
笑い方だけは、まだぎこちなかった。
「ラーズ!」
アイラが走ってくる。
手には小さな花。
白い花だった。
「見つけた。」
「どこで?」
「森の手前。」
白い花。
焼け跡の中で咲いている。
不思議だった。
「きれい。」
ウラが笑う。
その笑顔を見て。
胸が少し軽くなった。
昼。
木材を運び終えると、俺は一人で村外れへ向かった。
誰にも言わない。
昨日。
コロが残した葉が気になっていた。
ポケットから取り出す。
銀色。
昨日と変わらない。
普通の葉なら、とっくに萎れている。
でも。
これは違う。
触れると、ほんの少し温かかった。
「……。」
大樹が見える。
焦げた幹。
それでも立っている。
近づくたび。
掌が少し熱くなる。
「コロ。」
呼んでみる。
返事はない。
風だけが吹く。
「昨日は。」
少し笑う。
「ありがとう。」
沈黙。
やっぱり来ないか。
そう思った。
カサ。
葉が揺れる。
根元。
小さな影。
いた。
コロだった。
今日は逃げない。
葉っぱを頭へ乗せた、小さな身体。
丸い瞳でこちらを見ている。
「こんにちは。」
コロは首を傾げた。
そして。
小さく頭を下げた。
「挨拶?」
思わず笑ってしまう。
俺も頭を下げる。
コロが嬉しそうに一回転した。
「君。」
しゃがみ込む。
「話せる?」
コロは口を開く。
「……ラー。」
俺を見る。
「ラー。」
「ラーズ?」
何度も頷く。
「そう。」
「ラーズ。」
次。
コロは自分を指差す。
「コ。」
「ロ。」
「コロ。」
また頷く。
会話じゃない。
でも。
名前だけで、妙に嬉しかった。
コロは突然歩き始めた。
いや。
歩くというより、ぴょんぴょん跳ねている。
「待って。」
ついていく。
森の奥へは入らない。
大樹の根の周りだけ。
そこには、小さな空洞があった。
昨日は気づかなかった。
コロは中を指差す。
覗く。
石だった。
普通の石。
……いや。
違う。
表面へ細い銀色の線が走っている。
「これ。」
手を伸ばす。
触れた瞬間。
胸の中の銀色の魔力が少しだけ流れた。
石が光る。
一瞬だけ。
そして消える。
「反応した。」
コロは満足そうに頷いた。
「どういうこと?」
聞いてみる。
もちろん。
答えられない。
代わりに。
コロは地面へ枝で絵を描き始めた。
丸。
丸。
大きな丸。
小さな丸。
その横へ。
木。
そして。
小さな点。
「これ。」
俺を指差す。
「俺?」
頷く。
木を指差す。
「大樹。」
また頷く。
最後に。
丸の外側をぐるぐる囲む。
黒い線。
少しだけ嫌な気配。
「外?」
コロの表情が曇る。
それだけで十分だった。
危険。
そう伝えたいらしい。
その時。
「ラーズ!」
遠くからウラの声。
「どこー!」
「ここ!」
返事をする。
コロを見る。
「あ。」
コロは慌てた。
葉っぱを抱える。
「待って。」
でも。
ウラの足音が近づく。
コロは俺を見る。
少し困った顔。
そして。
木の幹へ飛び込んだ。
「え?」
消えた。
完全に。
まるで木へ溶けたみたいだった。
「いた!」
ウラが息を切らして来る。
「探した。」
「ごめん。」
「一人で来ちゃダメ。」
少し怒っている。
でも。
心配してくれたんだ。
「何してたの?」
一瞬迷う。
コロのこと。
言うべきか。
でも。
約束したわけじゃない。
それでも。
なぜか。
「木を見てた。」
嘘じゃない。
でも全部でもない。
ウラは木を見る。
「変な木。」
そう言って笑う。
「帰ろ。」
「うん。」
振り返る。
幹の隙間。
ほんの少しだけ。
葉っぱが揺れた。
コロが見送ってくれている気がした。
夕方。
村へ戻ると、ガドが大きな木箱を運んでいた。
「ラーズ。」
「これ持てるか?」
「うん。」
運ぶ。
中には本。
焼け残った本だった。
「どこで?」
「村長の家の裏。」
父さんの本だ。
魔物の記録。
地図。
古い伝承。
その中へ、一冊だけ見覚えのない本があった。
表紙は焼けて読めない。
開こうとする。
ガドが止めた。
「後で。」
「乾かしてからだ。」
「そうだね。」
少しだけ気になる。
でも。
急がない。
コロも言っていた。
> 『急ぐな。』
その言葉が頭をよぎった。
夜。
焚き火を囲む。
子どもたちは少しだけ笑っていた。
アイラが花冠を作っている。
ウラが失敗して笑われている。
俺も笑った。
久しぶりだった。
その時。
胸の奥が少しだけ温かくなる。
銀色の魔力。
暴れない。
静かだった。
まるで。
誰かが安心しているみたいに。
深夜。
みんなが眠った後。
俺はノートを開いた。
リスのノート。
新しいページ。
書き始める。
観察記録 三
* コロは昼でも現れた。
* 大樹の根元に銀色の石がある。
* 石は僕の魔力へ反応した。
* コロは危険を伝えようとしていた。
* 木の中へ入れる。
少し考える。
最後に。
新しく一文を書く。
> 仮説:精霊は魔法を使っているんじゃない。世界そのものと会話している。
書き終える。
ページを閉じる。
その瞬間。
ノートの端へ、一枚の銀色の葉が静かに挟まった。
風は吹いていない。
誰も触っていない。
それでも。
その葉は。
まるで栞みたいに。
次の物語が始まる場所を教えてくれているようだった。




