↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
17/31

第十七話 灰の朝

「人は泣きながらでも、朝を迎えてしまう。」


教師だった頃、一度だけ教え子の祖父が亡くなったことがあった。


翌日、その子は教室へ来た。


誰も「休んでもよかったのに」とは言わなかった。


ただ、みんな普段通りに「おはよう」と声を掛けた。


その子は笑おうとした。


でも笑えなくて、席へ座ると机へ顔を伏せた。


あの日、初めて知った。


悲しみは時間を止めてくれない。


朝は来る。


鐘は鳴る。


世界は続く。


残された人だけが、それについて行かなきゃいけない。


目を開けた。


灰色だった。


空じゃない。


空気だ。


家だった場所には壁が半分しか残っていない。


焦げた木の匂い。


煙。


まだ熱を持つ炭。


夢じゃなかった。


全部、本当だった。


「……。」


声が出ない。


喉が痛い。


昨夜、泣きすぎたせいかもしれない。


ウラは俺の隣で眠ったまま、小さく肩を震わせていた。


アイラは俺の服を掴んだまま眠っている。


泣き疲れて眠ったんだ。


俺はゆっくり立ち上がった。


足元で、灰がさらさらと音を立てた。


村は、別の場所になっていた。


広場。


井戸。


パン屋。


木工房。


全部知っている景色のはずなのに。


何一つ、昨日のままじゃない。


俺が子どもたちへ文字を書いて教えていた木の板。


黒く焼けて、地面へ倒れていた。


しゃがみ込む。


指で灰を払う。


かろうじて残っている文字。


「あ。」


『あ』の一文字だけだった。


胸が締めつけられる。


昨日まで。


ここでは笑い声が聞こえていた。


「ラーズ先生!」


そう呼ばれていた。


それが。


一晩で消えた。


「ラーズ。」


後ろから声がした。


振り向く。


村の鍛冶屋、ガドだった。


左腕に包帯を巻いている。


顔も煤だらけだった。


「無事だったか。」


俺は頷く。


「……父さんは?」


ガドは答えなかった。


その沈黙だけで。


嫌な予感が胸を満たす。


「みんな。」


低い声で言う。


「生きてる人を探してる。」


「手伝えるか?」


五歳の子どもへ言う言葉じゃない。


でも。


もう昨日までの世界じゃなかった。


「うん。」


生存者は少なかった。


焼け跡の下。


倒れた家の隙間。


井戸の近く。


「あっ!」


誰かが叫ぶ。


大人たちが駆け寄る。


助かった人。


助からなかった人。


その繰り返しだった。


アイラは途中で立ち止まった。


「……。」


木工房。


自分の家だった場所。


焼け落ちている。


「お父さん!」


走ろうとする。


俺とウラで慌てて止めた。


「待って!」


「危ない!」


アイラは泣きながら首を振る。


「お父さん!」


その声が。


村中へ響いた。


昼頃。


北門近く。


「見つけた!」


誰かが叫んだ。


みんな走る。


俺も走った。


そこにいた。


父さんだった。


膝をついたまま。


槍を握ったまま。


周りには灰牙狼が四匹。


全部倒れている。


槍は折れていた。


鎧は裂けていた。


でも。


最後まで前を向いた姿勢だった。


「父さん。」


足が止まる。


近づく。


返事はない。


頬へ触れる。


冷たかった。


「……。」


涙が出ない。


出るはずなのに。


出ない。


頭が理解を拒んでいた。


ガドが静かに槍を外した。


「村長は。」


小さく息を吐く。


「最後まで門を守った。」


その言葉で。


俺は初めて泣いた。


「父さん。」


何度呼んでも。


もう。


返事は返ってこなかった。


母さんは見つからなかった。


家の周り。


地下室。


広場。


何度探しても。


見つからない。


「まだ。」


俺は言う。


「まだどこかに。」


誰も否定しなかった。


でも。


誰も希望に満ちた顔はしていなかった。


夕方。


生存者が広場へ集まる。


数える。


昨日まで二十数軒あった村。


残った人は。


半分にも届かなかった。


子どもは。


さらに少ない。


ウラが俺の隣へ座る。


「ラーズ。」


「うん。」


「これから。」


言葉が続かない。


俺にも分からない。


これからどうなる。


誰が面倒を見る。


どこへ行く。


何も分からない。


その時。


村一番の年長者、オルム爺さんが立ち上がった。


白髪。


杖。


昨日まで畑を耕していた老人。


今日は十歳くらい老けて見えた。


「聞いてくれ。」


静かな声。


「村長は。」


父さんを見る。


「最後まで村を守った。」


みんな黙る。


オルムは俺を見る。


「ラーズ。」


心臓が跳ねた。


「お前は。」


少し間を置く。


「村長の息子だ。」


その一言で。


全員の視線が集まった。


嫌だった。


そんな目で見ないでほしかった。


俺は。


村長になりたいわけじゃない。


英雄にもなりたくない。


ただ。


父さんに。


もう一度。


頭を撫でてもらいたかっただけなのに。


夜。


簡単な弔いが始まる。


薪を積む。


花を置く。


誰も歌わない。


誰も英雄譚を語らない。


風だけが吹いていた。


俺は父さんの槍の折れた穂先を握っていた。


熱はない。


でも。


離したくなかった。


「ラーズ。」


ウラがそっと隣へ来る。


何も言わない。


ただ。


手を握る。


反対側では。


アイラが俺の服を掴んだ。


三人とも。


言葉なんて出なかった。


ただ。


泣いた。


初めて。


一緒に泣いた。


夜更け。


みんな眠った頃。


俺は一人で家だった場所へ戻った。


焦げた地下室の扉。


母さんが閉めた扉。


その破片を拾う。


黒く焼けている。


でも。


まだ形は残っていた。


地面へ突き立てる。


小さな墓標みたいに。


目を閉じる。


母さんの最後の言葉が蘇る。


「強く生きなさい。」


「この世界には、まだ良いものがある。」


「約束する。」


小さく呟く。


「まだ分からない。」


「どうしてこんなことが起きたのかも。」


「どうすれば守れるのかも。」


拳を握る。


銀色の魔力が。


ほんの少しだけ脈打った。


「でも。」


涙を拭う。


「俺が。」


「二人は守る。」


ウラも。


アイラも。


もう。


誰も一人にはしない。


それが。


五歳の俺が初めて自分で決めた約束だった。


風が吹く。


村外れ。


焼け跡の向こう。


あの大樹が見えた。


驚いたことに。


幹の一部は黒く焦げていた。


昨夜の災厄は。


あの古樹さえ傷つけた。


それでも。


枝の先。


たった一枚だけ。


新しい銀色の葉が揺れていた。


その根元。


小さな影が立っている。


葉っぱをまとった、小さな存在。


丸い瞳で。


じっと俺を見つめていた。


目が合う。


逃げない。


昨日までと違う。


まるで。


「まだ終わっていない。」


そう伝えに来たみたいだった。


俺が一歩踏み出すと。


その小さな精霊は胸へ手を当て。


静かに頭を下げた。


そして。


銀色の葉が風へ溶けると同時に。


月明かりの中へ静かに姿を消した。


その夜。


灰になった村で。


初めて。


絶望の中に、小さな希望が芽吹いた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。