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第十六話 昇華

「人は、終わりを理解した瞬間に大人になる。」


教師だった頃、一度だけ卒業式で泣いたことがある。


教え子たちが笑って教室を出ていく。


「また会いましょう。」


そう言いながら手を振った。


あの時は終わりじゃなかった。


別れだった。


でも、本当の終わりは違う。


「もう二度と会えない。」


そう分かった瞬間、人は何かを失う。


その日、俺は五歳で、その意味を知ることになる。


暗闇だった。


地下室の中は息苦しいほど静かだった。


いや。


静かなわけじゃない。


静かに聞こえないくらい、外がうるさかった。


獣の咆哮。


槍がぶつかる音。


誰かの悲鳴。


木が折れる音。


全部が土の壁を震わせていた。


アイラが俺の服を掴む。


小さな手が震えている。


「ラーズ……。」


「うん。」


「お母さん……。」


答えられなかった。


ウラも膝を抱えていた。


いつもなら「大丈夫!」と笑う彼女が、一言も話さない。


俺だけが。


俺だけが落ち着かなきゃいけない。


そう思うほど、心臓は速くなった。


ドォォォン!!


家全体が大きく揺れた。


天井から土が落ちる。


アイラが悲鳴を上げる。


「きゃっ!」


「頭!」


俺は二人を抱き寄せた。


もう一度揺れる。


今度はもっと近い。


まるで何か巨大なものが家へ体当たりしているようだった。


その時。


世界が再び喋った。


耳じゃない。


頭の奥へ直接響く声。


『昇華の儀。』


少し間。


『進行率、七割。』


七割。


誰が数えている。


何を基準に。


誰も分からない。


でも、その数字だけが異様に現実的だった。


「ラーズ。」


ウラが小さく呼ぶ。


「このまま待ってればいいの?」


俺は扉を見る。


母さんは。


「ここから出るな。」


そう言った。


約束。


守らなきゃいけない。


でも。


外では父さんが戦っている。


胸が苦しい。


呼吸が浅い。


その時だった。


掌が熱くなる。


銀色の魔力。


勝手に脈打っている。


まるで。


外へ出ろ、と言っているようだった。


「違う。」


小さく呟く。


「約束だ。」


拳を握る。


熱は消えなかった。


時間の感覚がおかしくなる。


一分なのか。


十分なのか。


分からない。


その頃。


地下室の小さな通気口から。


煙が入り始めた。


焦げ臭い。


家が燃えている。


「ラーズ。」


アイラが涙目で見上げる。


「煙……。」


「大丈夫。」


本当は分からない。


でも。


止まれなかった。


前世の俺なら。


きっと理屈を考えた。


今は違う。


今の俺は。


この二人を泣かせたくない。


それだけだった。


ガンッ!!


何かが扉へぶつかった。


三人とも息を止める。


ガリ……。


長い爪。


木を削る音。


ゆっくり。


ゆっくり。


近づく。


「やだ……。」


アイラが泣く。


俺は二人を後ろへ下がらせた。


呼吸。


父さんの言葉。


「流れを止めるな。」


掌へ魔力を集める。


透明な揺らぎ。


銀色が混じる。


でも。


扉は開かなかった。


その代わり。


外から。


誰かの叫び声が聞こえた。


「退けぇぇぇ!!」


父さんだ。


槍が何かを貫く音。


獣の断末魔。


そして。


重い何かが倒れた。


「父さん!」


思わず叫ぶ。


返事は。


聞こえなかった。


その瞬間だった。


空気が変わる。


寒い。


いや。


冷たいんじゃない。


重い。


胸へ石を乗せられたみたいだ。


世界そのものが息を止めた。


そして。


あの声が。


三度目に響いた。


今度は。


今までで一番大きく。


『昇華の儀、完了。』


世界が震える。


続いて。


感情のない宣告。


『魔王顕現。』


その瞬間。


空で。


何かが砕けた。


紫の星。


あの巨大な星が。


真っ二つになった。


いや。


違う。


砕け散った。


見えないはずなのに。


地下室の中からでも分かった。


世界が割れた。


その感覚が。


身体を貫く。


「うっ……。」


吐き気。


立っていられない。


胃がねじれる。


「げほっ!」


吐いた。


何度も。


息ができない。


銀色の魔力が暴れる。


頭が割れそうだった。


ウラが支える。


「ラーズ!」


「しっかり!」


「苦し……。」


涙が止まらない。


これは恐怖じゃない。


存在そのものが拒絶している。


そんな感覚だった。


そして。


笑い声が聞こえた。


「――ハハハハハハハハハ!!!」


狂ったような笑い。


空から。


いや。


世界全体から。


地下室の小さな隙間。


そこから。


見えてしまった。


空。


一人。


浮いている。


人間に見える。


黒い長髪。


漆黒の衣。


角のような影。


口元だけが異様に笑っていた。


両腕を広げる。


空を抱くように。


そして叫ぶ。


「ようやくだ。」


笑う。


もっと笑う。


「三千年。」


目を閉じる。


深く息を吸う。


「やっと自由になった。」


その声だけで。


村中の人が膝をついた。


でも。


そいつは。


村を見なかった。


俺たちを見た。


一瞬だけ。


目が合った気がした。


心臓が止まる。


終わった。


そう思った。


でも。


笑っただけだった。


「まだ弱い。」


独り言みたいに呟く。


次の瞬間。


空へ手を伸ばす。


黒い霧。


村中に散らばる魔物。


灰牙狼。


腐った猪。


異形たち。


全部の身体から。


青白い光が吸い上げられる。


魂だった。


「ギャアアアア!!」


魔物たちが苦しむ。


一匹。


また一匹。


身体が崩れる。


灰になる。


その光が。


全部。


あの男へ集まる。


「足りない。」


笑う。


「もっと。」


魂を飲み込むたび。


空気が重くなる。


「安定しろ。」


その姿が少しずつ濃くなる。


俺は理解した。


あいつは。


まだ完成していない。


それでも。


これほど恐ろしい。


どれくらい時間が経ったのか。


笑い声が止む。


男はゆっくり空を見上げる。


「さて。」


村へ背を向けた。


翼もない。


なのに。


空を歩くように。


北へ消えていく。


誰も止められない。


誰も追えない。


ただ。


絶望だけが残った。


静かだった。


本当に静かだった。


獣の声もない。


悲鳴もない。


燃える音だけ。


地下室の中。


誰も動けなかった。


その時。


微かな音がした。


コン。


扉だった。


「……?」


俺は近づく。


「母さん?」


返事はない。


「父さん?」


静寂。


恐る恐る鍵へ触れる。


鍵は。


外から壊れていた。


扉を押す。


ギィ……。


ゆっくり開く。


煙。


焦げた匂い。


崩れた天井。


玄関は半分なくなっていた。


家の中は。


もう家じゃなかった。


外へ出る。


足が止まる。


広場。


井戸。


パン屋。


木工房。


全部。


燃えている。


いや。


燃え終わっている。


灰だった。


「そんな。」


アイラが泣き崩れる。


ウラも言葉を失う。


俺は。


父さんを探した。


母さんを探した。


何度も。


何度も。


呼んだ。


返事は。


どこにもなかった。


風が吹く。


灰が舞う。


その灰の中。


銀色の葉が一枚だけ。


ゆっくりと。


俺の足元へ落ちた。


拾う。


温かかった。


その瞬間。


頭の奥で。


あの樹の声が。


今度は。


はっきり聞こえた。


『始まった。』


その頃。


遥か北。


誰も知らない暗闇。


十四の光が。


同時に開いた。


赤。


金。


青。


紫。


色の違う十四の瞳。


その中心で。


誰かが静かに笑う。


「始まった。」


「三千年の幕が。」


「ようやく上がった。」


その言葉と共に。


世界は。


二度と元には戻らない朝を迎えようとしていた。

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