第十五話 守るという約束
「教師って、怖くないんですか?」
文化祭の準備をしていた時だった。
脚立の上で飾り付けをしていると、一人の女子生徒がそう聞いてきた。
「何が?」
「誰かを守ること。」
俺は少し考えた。
「怖いよ。」
正直に答えた。
「先生だって人間だから。」
少女は少し驚いた顔をした。
「でも。」
俺は脚立から降りる。
「怖くても前へ出る人がいるから。」
その人たちは。
勇気があるんじゃない。
守りたいものがあるんだ。
その時は、そう思っていた。
今なら分かる。
本当に怖い人ほど。
誰かの前へ立つ。
◇◇◇
「閉めろ!!」
父さんの叫びが村中へ響く。
その声で凍りついていた大人たちが我に返った。
「門だ!」
「槍を持て!」
「子どもを家へ!」
さっきまで穏やかだった村が、一瞬で戦場へ変わる。
俺は門の方を見る。
灰牙狼が飛び越えた。
一匹。
二匹。
いや。
その後ろにも。
黒い霧をまとった獣たちが次々と森から溢れてくる。
「ラーズ!」
母さんが俺の腕を掴んだ。
「家へ!」
「でも父さんが!」
「今!」
その声は震えていた。
でも。
迷いはなかった。
◇◇◇
広場を走る。
後ろでは金属のぶつかる音。
悲鳴。
犬の遠吠え。
全部が混ざる。
ウラが俺の手を強く握る。
「怖い……。」
初めて聞いた。
彼女の震える声を。
アイラは泣きながら走っていた。
「お母さん……。」
「大丈夫。」
俺は言う。
本当は。
何一つ大丈夫じゃない。
でも。
言わなきゃいけなかった。
◇◇◇
家へ飛び込む。
父さんはまだ来ていない。
母さんが戸棚を開ける。
床板を持ち上げる。
「下へ。」
そこには。
小さな地下室があった。
保存食や水が置かれている。
「ここ。」
「入って。」
「なんで?」
「早く!」
今まで聞いたことがない声だった。
◇◇◇
その時。
玄関が開く。
父さんだ。
息が荒い。
肩から血が流れている。
「父さん!」
俺が駆け寄る。
「怪我!」
「かすり傷だ。」
嘘だ。
どう見てもかすり傷じゃない。
でも。
父さんは笑った。
「大丈夫。」
その笑顔が。
妙に苦しかった。
◇◇◇
「どれくらいいる?」
母さんが聞く。
父さんは窓の外を見る。
「数えられん。」
短く息を吐く。
「森全部が動いてる。」
その言葉で。
部屋の空気が凍った。
◇◇◇
父さんは槍を握り直す。
「ラーズ。」
俺を見る。
「聞け。」
真剣な目だった。
「何があっても。」
「母さんの言うことを聞け。」
「父さんも一緒に来て!」
思わず叫んでいた。
「無理だ。」
「どうして!」
「誰かが時間を稼がないと。」
「嫌だ!」
子どもの声だった。
前世の俺なら。
もっと冷静だったかもしれない。
でも。
今は五歳だ。
父さんを失いたくない。
ただそれだけだった。
◇◇◇
父さんは膝をつく。
俺の頭へ手を置く。
温かい。
「強くなったな。」
その言葉で。
涙が出そうになる。
「まだ。」
「全然。」
「強くない。」
父さんは笑う。
「だから。」
「生きろ。」
その一言が胸へ刺さった。
◇◇◇
外から叫び声が聞こえる。
「北門が破られた!」
「応援を!」
父さんが立ち上がる。
「行く。」
母さんが彼の腕を掴む。
一瞬だけ。
二人は見つめ合った。
何も言わない。
でも。
全部伝わっているようだった。
父さんは静かに頷く。
玄関へ向かう。
「父さん!」
振り向く。
笑った。
あの日見た。
一番優しい笑顔だった。
「ラーズ。」
「家族を頼む。」
そして。
扉が閉まった。
◇◇◇
数秒後。
外から。
ガンッ!
衝撃。
何かが壁へぶつかる。
悲鳴。
槍の音。
獣の唸り声。
全部。
家のすぐ外だった。
◇◇◇
母さんが動く。
「下へ。」
今度は逆らえなかった。
地下室へ降りる。
アイラは泣き続けている。
ウラは必死に涙を堪えていた。
「ラーズ。」
「うん。」
「怖い。」
「俺も。」
正直に答えた。
その方が。
少しだけ落ち着いた。
◇◇◇
母さんが食料を確認する。
水。
パン。
毛布。
全部整えていく。
手は震えている。
でも。
動きは止まらない。
その時。
また。
あの声が響いた。
世界の言葉。
空気そのものが震える。
『昇華の儀。』
『進行率 三割。』
全員が顔を上げる。
「進行率?」
そんなものまであるのか。
誰も答えられない。
◇◇◇
「ラーズ。」
母さんが小さく言う。
「聞いて。」
俺は頷く。
「もし。」
言葉が詰まる。
「もし、お母さんたちが戻るのが遅くても。」
嫌だ。
聞きたくない。
でも。
母さんは続ける。
「二人を守って。」
ウラを見る。
アイラを見る。
「約束。」
喉が苦しい。
声が出ない。
それでも。
「……うん。」
頷いた。
その約束の重さを。
まだ理解できていなかった。
◇◇◇
突然。
ドォン!!
家全体が揺れる。
棚が倒れる。
埃が舞う。
アイラが悲鳴を上げる。
「きゃっ!」
「大丈夫!」
抱き寄せる。
また揺れる。
外で何か巨大なものが暴れている。
「門だけじゃない。」
母さんが青ざめる。
「村まで。」
◇◇◇
俺は地下室の小さな隙間から外を見る。
炎。
煙。
走る人。
倒れる人。
父さんの姿は見えない。
その代わり。
空が見えた。
紫の星。
さっきより。
ひびが入っている。
細い。
でも確かに。
亀裂。
「割れてる。」
その瞬間。
胸の奥の銀色の魔力が激しく震えた。
まるで。
あの星へ反応しているみたいだった。
◇◇◇
母さんも空を見る。
顔色が変わる。
「もう。」
小さく呟く。
「そんな。」
何を知っているんだろう。
聞こうとした。
でも。
その前に。
玄関の方から。
ギィ……
何かが。
ゆっくり。
木を引っ掻く音がした。
一回。
また一回。
爪。
長い。
硬い。
地下室の中。
誰も息をしなかった。
音だけが近づく。
ギィ……
ギィ……
そして。
玄関の向こうで。
獣とは違う。
低く笑うような息遣いが聞こえた。
その瞬間。
母さんは決断した。
地下室の扉をゆっくり閉める。
最後に。
俺たち三人を見る。
涙を浮かべながら。
それでも笑った。
「強く生きなさい。」
「この世界には。」
少し息を吸う。
「まだ良いものがある。」
その言葉と同時に。
地下室の扉が閉まり。
外側から鍵が掛けられた。
暗闇が訪れる。
その直後。
家全体を揺らすほどの轟音が響いた。
世界が。
大きく。
悲鳴を上げた。




