第十四話 世界の言葉
「一番怖かったのは、揺れた瞬間じゃなかった。」
前世で一度だけ、大きな地震警報を経験したことがある。
授業中だった。
突然、生徒たちの机の上に置かれたスマートフォンが一斉に鳴り始めた。
甲高い警報音。
誰かが悲鳴を上げた。
「机の下!」
そう叫びながら、生徒たちを避難させた。
結局、その地震は大きな被害を出さなかった。
でも、今でも覚えている。
本当に怖かったのは地震じゃない。
揺れる前。
何も起きていない数秒間だった。
全員が息を止めて、「何か」が来るのを待っていた。
あの沈黙だけは、一生忘れられない。
◇◇◇
その朝は、美しかった。
昨日までの不安が嘘みたいだった。
空は澄み切った青。
雲は一つもない。
朝露をまとった草原が朝日に輝き、小川の水は宝石みたいに光っている。
「ラーズ!」
ウラが木剣を振り回しながら走ってくる。
「勝負!」
「朝から?」
「朝だから!」
相変わらずだ。
「今日は負けないからね!」
「昨日も言ってた。」
「昨日とは違う!」
横でアイラがくすっと笑う。
「昨日も負けた。」
「アイラ!」
「味方してよ!」
「事実。」
「むぅ!」
そのやり取りに思わず笑ってしまう。
こんな時間が。
ずっと続けばいいのに。
そんなことを考えてしまった。
◇◇◇
朝食の後、父さんは珍しく家にいた。
槍の手入れをしている。
ここ数日ずっと警戒を続けていたせいだろう。
「今日は休み?」
俺が聞く。
父さんは笑った。
「午前だけな。」
「少しだけ村を見回れば終わる。」
母さんが嬉しそうに言う。
「久しぶりに一緒に昼ご飯が食べられるわね。」
その一言だけで。
家の空気が柔らかくなった。
前世では。
「家族で昼食を楽しみにする。」
そんな会話すらなかった。
◇◇◇
午前。
広場では子どもたちが遊び、大人たちは畑仕事をしている。
何も変わらない。
本当に。
何も。
……変わらないはずだった。
「ラーズ。」
アイラが袖を引く。
「見て。」
馬だった。
柵の中で落ち着かなく歩き回っている。
耳を立て。
鼻を鳴らし。
何度も空を見上げていた。
「怖がってる?」
ウラが近づく。
馬は後ろへ下がった。
「変。」
確かに変だった。
その時。
村の犬が一匹、空へ向かって吠え始めた。
「ワォォォォン!」
一匹。
二匹。
三匹。
気づけば、村中の犬が同じ方向を見ている。
でも。
そこには何もない。
青空だけだった。
◇◇◇
「父さん。」
「ん?」
「動物がおかしい。」
父さんも空を見た。
少しだけ眉をひそめる。
「気づいたか。」
やっぱり。
父さんも感じていた。
「今日は。」
低い声になる。
「家からあまり離れるな。」
「うん。」
その時。
風が吹いた。
でも。
葉っぱは揺れない。
一枚だけ。
銀色の葉が。
空から舞い降りた。
「あ。」
あの葉だ。
大樹の葉。
俺は思わず追いかける。
葉は広場を横切り。
井戸を越え。
村の出口へ向かう。
そこで。
ふわりと地面へ落ちた。
拾い上げる。
冷たい。
その瞬間。
掌が少しだけ熱くなる。
「近い。」
頭の奥で。
あの言葉が蘇った。
◇◇◇
昼が近づく。
母さんが家の前から呼ぶ。
「ラーズー!」
「ご飯よー!」
「今行く!」
ウラもアイラも笑って走る。
その時だった。
ゴォォォン。
村の鐘が鳴った。
正午。
一回。
二回。
三回。
十二回。
最後の音が消えた瞬間。
世界が止まった。
風が止む。
鳥が消える。
虫の声が消える。
川の音まで。
聞こえなくなった。
「え?」
誰かが呟く。
空気が重い。
胸が苦しい。
そして。
それは聞こえた。
空からでもない。
地面からでもない。
耳で聞いたのかも分からない。
なのに。
村中の全員が同じ声を聞いた。
『世界の言葉を告げる。』
空気が震える。
心臓まで震える。
続いて。
感情のない声が告げた。
『昇華の儀、開始。』
その瞬間。
空が割れた。
◇◇◇
「な……。」
誰かが息を飲む。
青空の中心。
光が三つ。
星だった。
昼なのに。
星がある。
一つは赤。
一つは青。
一つは金。
三つの星は静かに回り始めた。
誰も目を逸らせない。
美しい。
恐ろしいほど。
美しい。
星は円を描きながら近づく。
ゆっくり。
ゆっくり。
そして。
一つになった。
紫。
世界で初めて見る色だった。
赤でもない。
青でもない。
闇でもない。
空の真ん中に。
巨大な紫の星が生まれた。
◇◇◇
「綺麗……。」
誰かが呟いた。
次の瞬間。
その人は動かなくなった。
「え?」
広場を見る。
村人たちが立ったまま止まっている。
目は紫の星を見つめたまま。
瞬きもしない。
「お母さん?」
返事がない。
「父さん!」
父さんも。
止まっている。
呼吸はしている。
でも。
身体が動かない。
「ラーズ。」
ウラが俺の腕を掴む。
震えている。
「みんな。」
アイラも青ざめていた。
「動かない。」
俺は自分の手を見る。
動く。
足も。
動く。
ウラも動ける。
アイラも。
三人だけ。
「どうして。」
答えはない。
◇◇◇
その時。
父さんの指先だけが動いた。
ほんの少し。
歯を食いしばる。
全身が震える。
「……ラーズ。」
声にならない声。
必死だった。
父さんは紫の星から目を逸らそうとしている。
「見るな。」
掠れた声。
「空を見るな!」
その叫びで。
俺たちは反射的に視線を下げた。
紫の光が少し弱まる。
呼吸が楽になる。
「下!」
俺が叫ぶ。
「みんな!」
ウラが村人の肩を揺する。
反応がない。
アイラが泣きそうな顔になる。
「どうしよう。」
その時だった。
父さんが全身の力で動いた。
一歩。
また一歩。
そして。
槍を掴む。
「全員!」
叫ぶ。
「門を閉めろ!」
その声が。
村中へ響いた。
まるで呪いを破るように。
何人かが動き始める。
でも。
遅かった。
◇◇◇
森から。
聞こえた。
ガァァァァァァ!!
一つ。
二つ。
三つ。
十。
数え切れない。
地面が震える。
鳥が飛び立つ。
いや。
飛び立てない。
森の奥。
木々の間。
赤い目。
また一つ。
さらに。
もう一つ。
「……。」
息が止まる。
昨日まで見た灰牙狼より。
多い。
ずっと多い。
黒い霧をまとった狼。
角の生えた猪。
腐った鹿。
見たことのない異形。
全部。
森から出てくる。
「嘘だろ。」
誰かが震える。
父さんは槍を構えた。
「ラーズ。」
短く言う。
「家へ戻れ。」
でも。
足が動かなかった。
森の奥。
木々の隙間。
ほんの一瞬だけ。
何かが立っていた。
人の形。
長い影。
紫の光を背に。
じっと。
こちらを見ている。
瞬きをした。
消えた。
幻だったのか。
分からない。
でも。
その瞬間。
最初の灰牙狼が。
村の門を飛び越えた。
その牙が。
陽の光を受けて。
赤く光った。




