第十三話 兆し
「嵐は、雨が降る前から始まっている。」
教師になって数年が経った頃、ようやく分かったことがあった。
問題というものは、ある日突然生まれるわけじゃない。
教室で笑っている生徒。
少しだけ増えた欠席。
黒板を見なくなった目。
ノートの端に描かれる意味の分からない線。
全部、小さな「兆し」だった。
あの頃の俺は、それを見逃した。
「気のせいか。」
その一言で終わらせてしまった。
だから決めた。
二度と、小さな違和感を見逃さない。
たとえ誰にも信じてもらえなくても。
◇◇◇
リスが王都へ帰ってから四日。
村はいつもの朝を迎えていた。
煙突から煙が昇る。
鶏が鳴く。
井戸の前では大人たちが笑い合っている。
全部、変わらない。
なのに。
俺だけが、何かを待っているような気分だった。
あの夢。
銀色の樹。
運命の残響。
掌へ視線を落とす。
何もない。
傷も。
光も。
でも、意識すると。
胸の奥で何かが静かに脈打っている気がした。
◇◇◇
朝食の途中。
父さんが窓の外を見た。
「鳥が少ないな。」
母さんも振り返る。
「そういえば。」
普段なら、この時間は森から鳥の声が聞こえる。
今日は静かだった。
完全な静寂ではない。
でも。
何かが足りない。
「ラーズ。」
父さんが言う。
「今日は森へ近づくな。」
「薬草も?」
「今日はなしだ。」
理由は説明されなかった。
でも。
父さん自身も理由が分かっていないようだった。
◇◇◇
昼前。
ウラが家へ飛び込んできた。
「ラーズ!」
「見て!」
外へ連れて行かれる。
空。
何もない。
「何?」
「さっきまで鳥がいっぱい飛んでたの!」
「どっちへ?」
「南!」
南。
季節はまだ移動する時期じゃない。
アイラも頷く。
「全部。」
「一緒に。」
群れが逃げるように飛んでいたらしい。
俺は空を見上げた。
青い。
雲一つない。
なのに。
胸がざわつく。
◇◇◇
午後。
父さんは村人たちを集めていた。
槍。
弓。
見回り。
「最近。」
父さんが言う。
「森の様子がおかしい。」
狼。
鳥。
獣道。
全部が変わっている。
「何かいるの?」
誰かが聞く。
父さんは首を振った。
「分からん。」
「だから警戒する。」
その時だった。
村の犬が一斉に吠え始めた。
空へ向かって。
何もない空へ。
◇◇◇
その夜。
眠れなかった。
理由は分からない。
身体は疲れている。
でも。
心だけが落ち着かない。
窓を開ける。
風が入る。
その風に混じって。
一枚の葉が舞ってきた。
銀色。
「……。」
急いで外へ出る。
葉を追いかける。
村外れ。
あの大樹。
葉は幹の前へ落ちた。
風が止まる。
世界が静かになる。
「また。」
自然に呟く。
樹は動かない。
喋らない。
でも。
近づいた瞬間。
掌が熱くなる。
◇◇◇
恐る恐る幹へ触れる。
冷たい。
前回の夢とは違う。
何も起きない。
そう思った。
その時。
コン。
木の中から。
鼓動みたいな音が聞こえた。
一回。
二回。
三回。
掌の鼓動と重なる。
「共鳴?」
銀色の魔力が勝手に流れ始める。
止めていない。
動かしてもいない。
ただ。
樹へ触れているだけ。
その時。
頭の中へ。
一つだけ言葉が落ちた。
「近い。」
たった二文字。
それだけ。
目を開ける。
辺りは静かなままだ。
でも。
足元を見ると。
銀色の葉が。
粉のように崩れていた。
◇◇◇
「誰?」
振り向く。
誰もいない。
でも。
気配がある。
木の根元。
小さな影が隠れた。
茶色。
葉っぱ。
丸い目。
「え?」
影は俺を見る。
一瞬だけ。
目が合った。
次の瞬間。
ぴょん。
茂みへ消えた。
「待って!」
追いかける。
いない。
葉っぱが少し揺れただけだった。
(見間違い?)
いや。
確かにいた。
誰か。
いや。
何か。
あの樹の近くに住んでいる。
◇◇◇
家へ帰る。
誰にも話さない。
話したら。
夢の話だと思われそうだった。
代わりに。
リスからもらったノートを開く。
初めて書く。
観察記録 一
鳥が南へ逃げた。
犬が空へ吠えた。
銀色の葉が落ちた。
大樹は「近い」と伝えた気がする。
小さな生き物を見た。
最後に書き足す。
「全部、偶然かもしれない。」
少し考える。
そして。
その一文へ線を引いた。
違う。
これは。
偶然じゃない。
◇◇◇
翌朝。
村の空気は少し重かった。
市場のおばさんが言う。
「野菜の育ちが遅いねぇ。」
鍛冶屋のおじさんが答える。
「湿気のせいか?」
「いや。」
猟師が首を振る。
「森の匂いが違う。」
匂い。
俺も深呼吸する。
土。
木。
草。
その奥。
ほんの少しだけ。
焦げたような匂い。
どこから?
森だった。
◇◇◇
昼過ぎ。
家畜たちまで落ち着かなくなった。
羊が柵の隅へ集まる。
馬が空を見て鼻を鳴らす。
鶏が巣から出てこない。
村で一番年寄りのおばあさんが呟いた。
「昔。」
誰にも聞こえないくらい小さな声。
「おばあちゃん?」
俺が聞く。
彼女は遠くを見る。
「こんな空を。」
「見たことがある。」
「え?」
「子どもの頃。」
少し震える声。
「大人たちが。」
「空を見上げるなって言ってた。」
「どうして?」
返事はなかった。
おばあさん自身も。
続きを思い出せないようだった。
◇◇◇
夕暮れ。
父さんはいつもより早く帰ってきた。
剣を磨く。
槍も確認する。
母さんが尋ねる。
「何かあった?」
父さんは短く答えた。
「何もない。」
少し間を置く。
「だから怖い。」
その言葉で。
家の空気が少しだけ冷えた。
◇◇◇
夜。
布団へ入る。
眠れない。
窓の外を見る。
星空。
美しい。
静か。
なのに。
どこか息苦しい。
掌を握る。
銀色の魔力が。
ほんの一瞬だけ。
指の間から漏れた。
その瞬間。
森の方角で。
大樹の葉が。
風もないのに。
一斉に揺れた。
まるで。
誰かが。
世界そのものへ耳を澄ませているように。
そして。
夜空の遥か向こう。
人の目では気づけないほど高い場所で。
まだ誰にも見えない三つの光が。
静かに。
互いを求め始めていた。




