第十一話 森に潜む影
「もっと早く気づいていれば。」
教師になってから、一番苦しかった言葉かもしれない。
ある男子生徒がいた。
授業中は笑っていた。
友達とも話していた。
だから、大丈夫だと思っていた。
でも、放課後になると、一人で教室に残ることが増えた。
ノートの端には、小さく黒い線ばかり描いていた。
「疲れてるのかな。」
その程度にしか思わなかった。
数週間後。
彼は学校へ来なくなった。
後になって知った。
ずっと、一人で苦しんでいたことを。
あの日から決めた。
小さな違和感を見逃さない人になろう、と。
◇◇◇
「もう明日か。」
朝食の席で、父さんがぽつりと言った。
家の空気が少しだけ静かになる。
リスはパンをちぎる手を止めた。
「うん。」
学院へ戻る日。
五年ぶりに帰ってきた時間は、驚くほど早く過ぎてしまった。
母さんは笑っていた。
でも、その笑顔の奥に寂しさがあることは、俺にも分かった。
「またすぐ帰ってくるよ。」
リスが明るく言う。
「春休みに。」
「約束。」
母さんが小指を差し出す。
リスも笑って小指を絡めた。
俺はその光景を見ながら思う。
(別れって。)
前世では、こんなにも惜しまれる別れを経験したことがなかった。
◇◇◇
「ラーズ!」
昼前。
ウラが家まで迎えに来た。
「薬草取り!」
「アイラも待ってる!」
父さんが頷く。
「森の入口までならいい。」
「奥へ行くな。」
「分かった!」
リスも立ち上がった。
「私も行こうか?」
「今日は準備あるでしょ。」
母さんが笑う。
「明日早いんだから。」
リスは少し考えてから頷いた。
「気をつけてね。」
「うん!」
その時。
彼女は一瞬だけ俺を見た。
昨日の「色のない魔力」のことを思い出しているようだった。
◇◇◇
村の北。
いつもの薬草採りの場所。
木漏れ日。
小川。
鳥の声。
……のはずだった。
「静か。」
アイラが小さく呟く。
俺も立ち止まる。
確かに。
鳥が鳴いていない。
風は吹いている。
でも。
森が息を止めているようだった。
「変だね。」
ウラも辺りを見回す。
その時。
藪の奥から、一匹のウサギが飛び出した。
全力で逃げている。
「え?」
次。
鹿。
鳥。
リス。
いや、違う。
鳥が一斉に空へ飛ぶ。
全部。
同じ方向から逃げている。
胸がざわついた。
(これは。)
前世なら。
「偶然かな」で終わらせていたかもしれない。
でも。
もう見逃したくない。
「二人とも。」
声を低くする。
「少し戻ろう。」
ウラが首を傾げる。
「薬草まだ。」
「後で。」
「なんか変。」
アイラも頷いた。
「……うん。」
その瞬間。
「ガルル……。」
低い唸り声。
振り向く。
木々の間。
灰色の狼が立っていた。
◇◇◇
「狼?」
ウラが息を飲む。
違う。
何かがおかしい。
毛並みは灰色。
でも。
体中に黒い筋が走っている。
目は赤い。
息を吐くたび、黒い霧が漏れていた。
「……。」
俺の背筋が冷える。
あの本。
あの話。
モルヴァス。
「腐蝕。」
自然と口から漏れた。
狼が飛び出す。
「下がって!」
俺は前へ出る。
火魔法。
違う。
間に合わない。
風。
弱い。
なら。
昨日の。
色のない魔力。
掌へ流れを集める。
透明な揺らぎ。
そのまま。
風へ変える。
「行け!」
突風。
狼の体勢が少しだけ崩れる。
「今!」
「アイラ!」
「ウラ!」
「後ろ!」
二人が走る。
でも。
狼は速い。
もう一度飛びかかる。
◇◇◇
(考えろ。)
力じゃ勝てない。
五歳だ。
でも。
前世の俺は。
問題を分けて考えていた。
「条件。」
狼。
速い。
一直線。
右側。
木。
枝。
そうだ。
風。
木の枝へ向ける。
「揺れろ!」
バキッ!
太い枝が落ちる。
狼の目の前。
避ける。
勢いが止まる。
「今!」
水。
地面。
泥。
狼の足が滑る。
転ぶ。
「すごい!」
ウラが叫ぶ。
まだ終わってない。
狼が立ち上がる。
赤い目。
殺気。
今度は俺へ。
◇◇◇
怖い。
足が震える。
でも。
逃げたら。
後ろに二人がいる。
父さんの声が頭に響く。
「流れを止めるな。」
呼吸。
吸う。
吐く。
透明な魔力。
掌で回す。
銀色に近い光が一瞬だけ滲む。
「え?」
自分でも驚く。
でも。
止めない。
風。
火。
混ぜる。
炎じゃない。
熱い風。
狼の目の前で弾ける。
「ギャア!」
目を閉じる。
その一瞬。
「ラーズ!」
聞き慣れた声。
リスだ。
◇◇◇
青いローブが木々を駆け抜ける。
杖を抜く。
「水牢。」
水が狼を包む。
逃げようとする。
「光。」
白い閃光。
狼が動きを止める。
次の瞬間。
父さんも駆けつけた。
槍。
一閃。
狼は倒れた。
静寂。
誰も動かない。
◇◇◇
「大丈夫?」
リスが俺を抱き寄せる。
「うん。」
「怪我は?」
「ない。」
ウラも。
アイラも無事だった。
でも。
リスは狼へ近づく。
しゃがむ。
毛をかき分ける。
黒い筋。
それを見た瞬間。
顔色が変わる。
「そんな。」
小さく呟く。
「ありえない。」
父さんが聞く。
「知ってるのか?」
リスは頷く。
「学院で。」
「見たことがある。」
「でも。」
震える声。
「もっと北の汚染地帯だけ。」
「こんな近くには。」
いるはずがない。
◇◇◇
帰り道。
誰も笑わなかった。
村が見えた時。
やっと息を吐けた。
アイラがそっと俺の服を掴む。
「怖かった。」
「うん。」
「でも。」
彼女が少し笑う。
「ラーズがいた。」
その一言が嬉しかった。
でも。
心の中では違うことを考えていた。
(森。)
何かいる。
絶対に。
◇◇◇
その夜。
リスは荷物をまとめ終えた後。
父さんを外へ呼んだ。
「お父さん。」
昨日より真剣な声だった。
「森。」
「何か起きてる。」
父さんは黙る。
リスは続ける。
「灰牙狼。」
「腐蝕された個体。」
「学院では。」
「北の禁域でしか確認されてない。」
「なのに。」
「ここへ来てる。」
風が吹く。
リスは拳を握る。
「ラーズも。」
少し間。
「普通じゃない。」
「今日。」
「銀色の魔力を見た。」
父さんの目が細くなる。
「銀色?」
「一瞬だけ。」
「見間違いじゃない。」
長い沈黙。
やがて父さんが答える。
「分かった。」
「村の見回りを増やす。」
リスは頷いた。
「それと。」
「学院へ戻ったら調べる。」
「絶対。」
父さんは娘の肩へ手を置く。
「無理はするな。」
「うん。」
でも。
その横顔は。
もう決めている人の顔だった。
◇◇◇
翌朝。
馬車が村を離れる。
リスは窓から身を乗り出す。
「ラーズ!」
俺は手を振る。
「またね!」
「約束!」
彼女は笑う。
でも。
最後に父さんへだけ聞こえるくらい小さな声で言った。
「この森。」
「何かがおかしい。」
馬車は遠ざかる。
銀色の髪が見えなくなるまで。
俺は手を振り続けた。
そして。
村の向こう。
あの静かすぎる森を見た。
今度は気のせいじゃない。
あそこには。
確かに。
何かが息を潜めていた。




